戻る付録へ

前へ次へ

〜4周年&100000HIT達成謝恩企画〜

この青い空の下


第3章 哀しみは胸の奥に(*1)

どことも知れぬ町の街路に、彼女は立っていた。
建ち並ぶ家々は小さく、さほど大きな町ではない。これまで彼女が訪れたどの町とも違っている。
あたりは暗かった。見上げた空には、黒く厚い雲がどんよりとたれこめている。
昼なのか、たそがれ時なのか、夜明け前なのか、それすらもはっきりしない。
家からもれる明かりはなく、周囲は静まり返っている。ここは住人に忘れ去られた死の街で、生ある者は彼女ひとりだけのようにも感じられる。
腰には、使い慣れた愛剣が差さっている。柄に触れると、安心感が広がる。
油断なくあたりをうかがいながら、ゆっくりと歩を進める。
目的地があるわけではない。ここがどこなのか、何のために自分がここにいるのかすら、わかってはいないのだ。
剣士としての本能に導かれるように、彼女は道から道へとたどった。
不意に、前方で鈍い爆発音が響きわたった。真っ赤な火の手が上がっているのが見える。子供が泣き叫ぶ声、男の怒号、女性の悲鳴がわきおこった。これまで耳をふさいでいた手が、突然取り去られたかのようだ。紛れもなく、そこには助けを呼ぶ人々がいる。
「今、行くぞ!」
ひと声叫び、剣を抜き放つと、彼女は現場に向けて走った。
あっという間に、左右に並ぶ家々の扉が開き、恐怖に顔を引きつらせた老若男女があふれるように飛び出してくる。その後ろから、壁を突き破って現れたのは、いくつもの黒い影だ。
闇そのものがわだかまったかのような影は、人なのか、動物なのか、異形の魔物なのか、それすらも判然としない。ただ、とてつもなく邪悪な、心をむしばみ力を奪い尽くすような妖気を発散していることだけはわかる。
彼女は剣を構えると、逃げまどう人々をかばうように立ちはだかり、黒い影の群れに立ち向かった。
(いつかも、同じようなことがあった・・・)
記憶のかけらを振り払うかのように、気迫をこめて妖魔の群れと対峙する。
「メルブリッツ!」(*2)
雄叫びとともに、両手で中段に構えた剣で、邪悪な影をなぎ払いながら、突進する。
両断された影は縮み、宙に吸いこまれるように消えた。
だが、すぐに離れた別の場所で爆発音と共に火の手が上がり、人々の悲鳴が響きわたる。
彼女は剣を手に、街路から街路へと飛び回った。
しかし、黒い影は絶え間なく出現し続ける。
今や、町のあらゆる場所が炎に包まれていた。子供も、老人も、男も、女もばたばたと倒れていく。
火の粉が舞うがれきの山を飛び越え、黒い煙を突っ切り、彼女は敵を求めて走った。
いや、そうではない。ひとりでも多くの人を救いたかったのだ。
(お願い、もうあんな思いはいや――!)
他の街路とは異なる、石造りの広い道に出た。町の中心部に通じているようだ。
彼女は、何物かに引き寄せられるかのように、迫り来る影を切り捨てつつ、ひた走った。
町の中央には、広場があった。得体の知れない、靄めいた黒い霧がたちこめている。
霧のすかして、背後に上がっている炎の赤黒い色とは異なる輝きが見えた。
あの輝きを、守らなければ――!!
衝動にかられて、彼女は走った。
霧が急速に濃くなり、彼女の行く手をはばむ。
泥沼のような霧の中で、次第に手足が利かなくなってくる。剣を動かすこともできない。
闇の中に吸い込まれ、意識が遠のいた瞬間、霧の中から巨大な影が立ち上がるのを、彼女は見た。


徐々に意識が戻ってくる。
頭の中で、戦の開始を告げるようなドラムの音が激しく鳴り響いている。
いや、違う。これは心臓の鼓動だ。
目を閉じたまま、ゆっくりと息を吸う。しばらく息を止め、それからゆっくりと吐き出す。
これを繰り返すうちに、耳を聾するばかりだったドラムの音も次第にゆるやかになってくる。
パニックに陥りかけていた心が落ち着いてくる。
わたしは、だれ――?
ゆっくりと問いかける。すぐに答えは返る。
そう――。
わたしは、エスメラルダ。仲間からは、メルと呼ばれている。
通称“リサの女神”――。いや、そんなことはどうでもいい。
大丈夫、おのれを見失ってはいない。
目を開き、ベッドから身を起こす。
「夢、か・・・」
寝乱れた髪をなでつけながら、つぶやく。
悪い夢だ。こんな夢、久しく見ることはなかったのに。
あの出来事が、まだ心に深い傷となって残っているのだろうか。そして、その記憶が悪夢という形になって、よみがえってきたのだろうか。はるか昔に葬り去った記憶のはずなのに。
いや、忘れられるはずがない。忘れてはならないのだ。
ベッドから出て窓辺へ行き、窓を大きく押し開ける。
青白い月明かりに照らされた、リサの豊かな大地が広がっているのが見渡せる。
大地の恵み――清らかな水と肥沃な土壌がはぐくんだ、収穫を待つばかりの野菜畑や果物畑が、はるかな丘の裾まで見渡す限り広がっている。
大気には秋の気配が入り込み、涼しい風が心地よい。だが、メルの夜着は汗にまみれてべっとりと肌に貼り付いている。
あの悪夢の名残だ。
ここから見える、平和そのものといった風景に比べて、夢の中で魔物に襲われていた町がなんと悲惨だったことか。
メルはぞくっと身を震わせた。夜気にあたったせいではない。心の中を、冷たい風が吹き過ぎたのだ。
(何なの、この胸騒ぎは――?)
しばらく凍りついたように立ち尽くしていたメルは、いやな思いを振り捨てるように首を振った。
とにかく寝汗にまみれた身体が気持ちが悪い。冷たい井戸水でも浴びて、さっぱりしよう。夜中だろうとかまうものか。
(そうすれば、気分も晴れるわよね)
そう決めると、手桶と乾いた布を手にして、メルは部屋を出た。
大気は澄みわたり、空は晴れわたっている。
同じ空の下で、同じように悪夢をみて、心をかき乱された人物が他にもいることを、彼女はまだ知らない。

フィンデン王国の北西部に位置するリサは、農業の村として知られている。辺境に位置するため、開発が遅れて、王国の他の町に比べると訪れる人も少なく、にぎわってはいない。だが、逆にそのために乱開発で土地が荒らされるのを免れ、栄養豊富で美味な農作物の産地として知られるようになっていた。 人口も少なく、家々は畑の間を縫うようにぽつりぽつりと建てられている。
家を囲む木立と畑の間に作られた共同井戸の脇に立つと、木戸を閉め、メルは手早く着ているものを脱いだ。なめらかに伸びた黒髪がつややかに光る。木々の葉が作るまだら模様の影の中に、月光に照らされた白い身体がくっきりと浮かび上がる。(*3)
つるべで水を汲み上げると、ためらうことなく肩から腰へとざあざあとかけていく。この時期だと、井戸水はかなり冷たく、大の男でも縮み上がってしまうほどだが、若い頃から鍛え抜いているメルはまったく平気だ。
冷たい水を浴びると、心も身体も引き締まるように思える。今でも一日千回の剣の素振りを欠かさない(*4)メルの均整の取れたスタイルは、若い頃とほとんど変わっていない。
ひとしきり清澄な井戸水の感触を楽しむと、先ほどまで感じていた不安感も消え去ったようだ。乾いた布で、ぬれた身体を拭う。気分がさっぱりし、思わず歌を口ずさんでいた。

凍て〜つく〜、大〜地を〜、男は〜、たが〜やす〜・・・
春〜の〜、日様〜を〜、また〜、呼ぶ〜ために〜・・・
(*5)

幼い頃に、よく母親が歌ってくれた子守唄だ。先祖代々、伝えられてきた歌だという。
ふと、歌声が途切れた。
忍び寄ってくる、かすかな気配を感じたのだ。
「誰だ!」
鋭い声で叫び、身をかがめて地面に落ちている石つぶてを拾い上げる。剣を持たなくとも、一流の戦士は身の回りにあるあらゆるものを武器にできるものだ。
「待て、俺だよ」
少し離れたところで、あわてたような声がした。
「マルティン・・・」
相手が誰かわかり、メルは緊張を解いた。
「すまない、脅かすつもりはなかったんだ。畑の見回りをしていただけで・・・。まさか、こんな時間に、その、あんたが・・・」
大柄でたくましい男の姿が、月明かりの中に現れた。しっかり顔をそむけ、反対側の畑の方を向いている。
「ふふふ、いいのよ。行水しているところを覗かれて、あたふた大騒ぎするような歳でもないしね」(*6)
メルは手早く着替えを身に着けた。
「それに、こんなおばさんの裸を見たって、楽しくも何ともないでしょう」
「あ、いや、それは・・・」
畑の方に顔を向けたまま、相手が口ごもるのを聞いて、メルはくすっと笑った。
「もういいわよ」
ほっとした様子で、男が近寄ってくる。メルも決して女性としては小柄な方ではないが、そのメルよりも頭ひとつ分は高い(*7)。肩幅も広く、かついでいる特大の斧が小さく見える。
マルティン・クロームは同じリサの出身で、メルとは幼馴染だ。若い頃には一緒に冒険もした。メルより五つ年長だが、底なしの体力は衰えを見せず、今も農作業のかたわら、リサの野菜を王国各地に運ぶ旅商人の護衛をしたり畑を荒らす野獣退治に出かけたりと忙しく働いている。
「こんな時間まで、精が出るわね」
「ああ、そろそろクマ(*8)やイノシシが山から下りてくる時期だからな。収穫間際になって、せっかく丹精込めた野菜をやつらに荒らされるわけにはいかない」
メルは黙ってうなずく。
「それより、メルこそどうしたんだ。こんな時間に――」
「ええ、ちょっと夢をみて、眠れなくなってしまって」
夢のことを思い出すと、再び、えもいわれぬ不安感が頭をもたげてくる。
話してしまえば、すっきりするかも知れない。
「マルティン・・・。聞いてくれる?」
「ああ、もちろんだ」
畑を見下ろす土手に腰を下ろし、メルは夢で見た光景を語った。
聞き終わると、しばらく考え込んでいたマルティンが、口を開く。
「俺には何とも言えないが・・・。やっぱり、あのことが尾を引いてるんじゃないのかな」
「やっぱり、そう思う? もう20年以上も昔のことなのに・・・」

20数年前――。
グラムナート地方の北部一帯に、魔物が大量発生したことがあった。
ボッカム火山を中心とした山岳地帯から出現した魔物の群れは、ふもとの村や町を襲い、多くの人が犠牲になった。
フィンデン王国の中で、もっとも魔物が集中したのが北部にあるリサの村だった。
王都メッテルブルグからの騎士隊の派遣も間に合わず、リサの村が魔物に蹂躙されるのは時間の問題とも思えた。
そんな絶望的な状況の中、魔物の前に立ちはだかったのは、当時まだ二十歳の娘に過ぎなかったメルだった。
ボッカム山ろくの洞窟で、師匠の剣士ミューレンと共に修行に励んでいたメルは、魔物の出現をいちはやく察知して、故郷を守るために駆けつけたのだ。
マルティンら、村の青年団も魔物の群れを支えきれず、次々に退却する中、メルは最後まで踏みとどまり、剣を振るい続けた。
そしてついに、魔物は一掃され、リサの村は救われた。
村人たちはメルの勇気と功績をたたえ、以降、メルは“リサの聖女”あるいは“リサの女神”と呼ばれるようになった。
だが、それには高い代償を払わねばならなかった。
魔物に追われる村人たちを守ろうとしたメルは、自分の家を守ることは最後に回さなければならなかった。
メルの家には、逃げ遅れた両親がいた。メルが気付いた時には、すでに父も母も魔物の手にかかった後だったのだ。 他の村人を守った代わりに、愛する家族を救うことができなかった。
このことが、メルの心にずっとのしかかっていた。本当に、自分の行動は正しかったのだろうか。他に、とるべき手段はなかったのか。
その後も修行を続けながら、メルは自分に問いかけ続けた。だが、いまだに答えは得られていない。

「だがな、あんまり考え込むんじゃないぞ。沈んだ顔なんて、あんたにゃ似合わない」
マルティンが言った。
「なにしろ、あんたは今でも“リサの女神”なんだからな」
「“今でも”は余計だわ」
「そのうち、メッテルブルグで『リサの女神物語』なんて本が売り出されるかも知れないぞ」
「あはは、まさか」
メルは笑った。再び心は軽くなっていた。
「いやいや、そうとも言えないぞ」
マルティンはまじめな顔をした。
「『マッセンの騎士』って話を知ってるか」
「ええ、もちろん」
以前、メッテルブルグに行った時に買ってきた本の中に、『マッセンの騎士』も混じっていた。子供向けに書かれた冒険物語だが、童話が好きな(*9)メルは楽しんで読んだ記憶がある。
「酒場のおっさんに聞いたんだが、あの話は実話を元にしているらしいんだな」
「へえ・・・」
それは初耳だった。マッセンそのものは、フィンデン王国の東北に実在している国だが、ストーリーは架空のものだと思っていた。
「ちょうど20年ほど前に、マッセンを魔物の群れが襲った・・・。“マッセンの騎士”と呼ばれた勇敢な少年が、たったひとりで国を守った・・・。どうだ、似てると思わないか?」
メルははっとした。確かに、リサの村を襲った事件と似ている。時期も同じだ。ボッカム山から出現した後、北へ向かった魔物もいただろう。それがマッセンを襲ったのかも知れない。
「だからさ、メルの物語だって本になるかも知れないじゃないか」
「関係ないわ。本にしてほしくてやったことじゃないし」
メルの顔がくもった。あわててマルティンが話題を変える。
「それはそうと、その後、“マッセンの騎士”は旅立ってどこかへ消えてしまったそうだが、もしかしたら、まだどこかで生きているんじゃないかな。“リサの女神”と同じようにさ」
「そうね。もし本当に実在しているなら、会ってみたい気もするわね」
メルは立ち上がると、大きく伸びをした。
はるか東にそびえ立つボッカム山の向こうの空は、かすかに白み始めている。夜明けが近づいているのだろう。リサの朝は早い。村人のほとんどは、日の出とともに起き出すのだ。
「そろそろ、朝ね」
「おっと、ずいぶんと長話しちまったな。夜が明けるまでに、もう一回りして来ないと」
あわててマルティンが立ち上がる。
その時、村の入口の方から、早起きの村人の叫びが聞こえた。
「騎士隊だあ! 騎士隊が来たぞー!」
「何ですって?」
メルの表情が引き締まる。この平和な村に騎士隊がやって来るなど、めったにないことだ。
「こいつは、穏やかじゃないな」
マルティンもつぶやいた。
「行ってみよう」
「あなたは先に行って。わたしは剣を取ってくるわ」
「わかった」
剣を取りに家へ戻るメルの心に、またも胸騒ぎが黒雲のように広がっていた。

フィンデン王国神聖騎士団第18分隊が、国王の名の下にリサの村の全資産の接収を告げたのは、その朝のことだった。


戻る付録へ

前へ次へ