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〜4周年&100000HIT達成謝恩企画〜

この青い空の下


第4章 ことの次第(*1)

“たるとワインの街”という異名を持つファスビンダーは、カナーラント王国の北部にある。かつては国の中心地として繁栄し、王国各地や隣国に通じる街道が四方へ伸びていた(*2)。当時は徒歩や馬、馬車といった陸上交通が、旅人の主な移動手段だったのだ。しかし、その後、南部のヴィスコー川を中心とした水上交通が発達し、船を使った交易が盛んになるにつれて、ファスビンダーの街は往時のにぎわいを失っていった。訪れる旅人も減り、国の中心は南部の王都ハーフェンへ移っていった。
そこで、当時の市長が街の特色を出して観光客や旅商人を呼ぶことを考えた。ファスビンダーの隣接丘陵は日当たりがよく地下水の質も良好で、昔からブドウの名産地であり、それを原料としたワインの生産が盛んだった。自分も大のワイン好きだった市長は、ワインを街の目玉にすることを思いついた。家よりも大きなたるを作ってワインを満たし、誰でも自由に汲んで飲めるようにしたのだ。“クラリッサ”と名付けられた大だるは今でもファスビンダーの名物となっており、訪れる酒好きの旅人が引きも切らない。また、街の名を冠したワインも銘酒としてカナーラント全土ばかりか他国へも輸出されている。
今日も大だる“クラリッサ”はファスビンダーの中央広場にでんと腰をすえ、街を睥睨している。恋人のように“クラリッサ”に寄り添って立っているのは、自他ともに認めるワイン好きの管理人イェルク・ラーケンだ。イェルクが居座っている中央広場には共同井戸とワイン倉庫があり、そこから東へ伸びる石畳の街路が街の中心部を貫いて街道へとつながっている。街路沿いにもいたるところに大小のたるが並び、街の異名がだてではないことを示している。
街路の北側に、たるに囲まれるようにして一軒の酒場が建っている。隣は食料品店だ。
ドアを抜けると、1階はザヴィットがマスターを務める酒場『酒と俺亭』になっている。壁際には酒だるやワイン棚が並び、カウンター席だけのシンプルなつくりだ(*3)。店の奥には2階へ通じる階段があり、上ると狭い廊下になっていて、左右にいくつかの寝室がある。他の街の酒場と同様、『酒と俺亭』は宿屋も兼ねているのだ。

いちばん奥の寝室のドアを、ヴィオラートはそっとノックした。
「はい、どうぞ」
アイゼルの落ち着いた声が返る。
「どうですか、容態は?」
音を立てないように後ろ手でドアを閉めると、ヴィオラートは小声で尋ねた。
「いいとも悪いとも言えないわね・・・。とにかく、今は安定しているわ」
答えながら、アイゼルは水でぬらした布で、ベッドで眠っている男性の額をぬぐった。
『大貫洞』でフィンデン王国の騎士隊に襲われていたところを、ヴィオラートらの一行が助け出した冒険者だ。アデルベルトという名らしい。ファスビンダーへ戻るとすぐ、宿屋へかつぎこんでアイゼルが調合した薬を与え、ベッドに寝かせた。全身に傷を負っていたが、特に左肩の刀傷がひどく、そこから悪い菌でも入ったのか、ずっと高い熱が続いている。ほとんど口をきくこともできず、今のようにこんこんと眠っているか、熱にうかされてうわごとを言っているかのどちらかだった。
「どちらにしろ、栄養を摂らせてゆっくり休ませる他はないわね」
アイゼルはヴィオラートを振り向いた。
「それで、何の用かしら? まだあなたが付き添う順番ではないと思うけど」
「あ、はい・・・。あの女性――ラステルさんが、起きられるようになったので、呼びに来たんです。まとまった話をする元気も、出たからって」
ヴィオラートの言葉に、アイゼルはうなずいた。
「そう・・・。それじゃ、ようやく何が起きたのか、ことの次第が聞けるわけね」
アデルベルトと違って、ラステルは特に大きなけがはしておらず、ただ慣れない逃避行に疲労困憊していただけだった。隣国フィンデンで何が起っているのか、すぐに事情を聞きたいのはやまやまだったが、本人も気が高ぶっていて冷静に話せそうもなかったため、まずはゆっくりと休んで気持ちを落ち着けてからということになったのだ。
ふと、アイゼルは眉をひそめた。病人を見やる。
「話を聞きに行きたいのだけれど、この人を放っておくわけにはいかないわね。そろそろ交代が来る時間なのに、どうしたのかしら」
アイゼルの言葉が終わらないうちに、ノックもなしにドアが開いて、若い女性が飛び込んできた。
「やっほ〜、ごめーん、遅れちゃって!」
船乗りのような大きな帽子をかぶり、くりくりした空色の目に眼鏡をかけ、薄茶色の髪を両側でゆるく束ねて赤いリボンで結んでいる。いでたちは、帽子から上着、スカートまで紫色で統一されている。街のワイン倉庫の管理人、ミーフィス・プァルツだ。街いちばんの酒豪で、“早飲みミーフィス”の二つ名の持ち主であることなど、その童顔からは想像もつかない。(*4)
「あはは、ごめんね〜。外国から届いたばかりの珍しいお酒の味見をしてたら、ついつい・・・ね」
悪びれもせずに笑って、手に持っていた酒びんを示す。栓を抜いたばかりのように見えるが、すでに中身は半分に減っている。
アイゼルとヴィオラートは、あきれたように顔を見合わせた。
「さ、交代ね。大丈夫、あとはまかせて。ちゃんと看病するわよ〜!」
張り切った調子で言うと、ミーフィスは先ほどまでアイゼルがかけていたベッド脇の椅子に腰を下ろし、サイドテーブルに酒びんをどん、と置いた。そして、ポケットから魔法のようにグラスを取り出し、その脇に置く。
「あの〜、ミーフィスさん?」
遠慮がちにヴィオラートが声をかける。
「お酒を飲みながら病人に付き添うってのは、ちょっと・・・」
「なによ〜、『お酒は百薬の長』って言うじゃない。知らないの!?」
ミーフィスは目をつり上げて言った。
「ええと、それは意味が少し違うんじゃないかと・・・」
言葉を続けようとしたヴィオラートの肩を、アイゼルが押さえた。部屋から出るように目配せをする。お酒に関してミーフィスと論争しても、勝ち目はない。
「それじゃ、後はお願いするわ、ミーフィス」
そして、ドアのところから付け加える。
「でも、くれぐれも、病人にお酒を飲ませたりはしないようにね」
「あったりまえじゃない! あたしだって、そんなに非常識じゃないわよ」
ミーフィスは答えた。
「そんなもったいないこと、誰がするもんですか」
部屋を出たアイゼルは廊下の突き当たりにある窓から、外に広がるなだらかな丘陵地帯をながめた。どんよりとした曇り空の下で、景色は小雨にけむっている。
「いやな天気ね・・・」
アイゼルはつぶやいた。そういえば、ファスビンダーに戻ってからというもの、ずっと雨がちの天気が続いていて、晴れた日は一日もない。(*5)
「行きましょうか」
ヴィオラートをうながすと、アイゼルは廊下の反対側にあるラステルの部屋の扉をノックした。


ラステルは、ベッドに半身を起こしていた。サイドテーブルには、空になったスープ皿と水差しが置いてある。
ここに運び込んだ時と比べると、やつれていた頬も丸みを取り戻し、血色もよくなっている。今はアイゼルが着替え用に持ち歩いていたピンクの部屋着を借りて身に着けているが、あつらえたかのようによく似合っている。(*6)
気品ある顔立ちの中にも、少女っぽい面影が残っており、実年齢より若く感じさせる。ラステルの年齢を聞いた時、自分の母親とさほど変わりがない(*7)ことを知って、ヴィオラートは愕然としたものだ。
ラステルは微笑んでアイゼルとヴィオラートを迎えた。しかし、ラステルの深みのある青い瞳の中では、深い憂いとかすかな希望がせめぎあっているように見える。
ふたりの錬金術士に少し遅れて、新鮮な水を満たした新しい水差しを持ったザヴィットが入ってくる。 3人は、木の椅子を引き寄せると、ベッドとサイドテーブルを囲むように腰を下ろした。
「では、始めましょうか。でもラステルさん、お疲れになったら、いつでもそう言ってくださいね」
いたわるようにアイゼルが言った。
ラステルはうなずく。
「ご心配いただいてありがとう。でも、気にしないで。いただいたお薬とスープのおかげで、すっかり元気になったわ。それに――」
顔をくもらせて目を伏せる。
「すべてを聞いていただかないうちは、心が安らぐことはないもの」
しばらくの間、誰も口を開かず、重い空気が室内を支配した。
「では、お話を聞かせていただきましょう。私たちにできることがあれば、何なりとお手伝いしますよ」
落ち着かない沈黙を振り払うように、ザヴィットが言う。ラステルはうなずき、
「その前に、あらためてお礼を言わせてください。あの時、あなたたちが来てくださらなかったら、わたしもアデルベルトさんも、あの場所で切り捨てられていたでしょう」
「あの時にいた連中は、本当にフィンデン騎士団だったのですか?」
ザヴィットが尋ねる。
「間違いなく、正真正銘の国王直属の騎士隊です」
「ふむ。あなたの言葉を疑うわけではないが、自分の目で見ても、いまだに信じられないのですよ。騎士隊があのような暴挙に出るなど、正気の沙汰とは思えない」
「おっしゃる通りですわ」
ラステルはくちびるをかんだ。
「国王も騎士隊も、狂ってしまったのです」
「えええ!?」
「何ですって?」
ヴィオラートもアイゼルも声をあげた。
ラステルは感情を押し殺すように、静かに言葉を続ける。
「わたしがそのことに気付いたのは、ふた月ほど前のことでした。お父様のところに、突然、騎士の一分隊が訪ねて来たのです。お父様は、メッテルブルグの商工ギルドの理事長をしていて――」
「そうか!」
突然、ザヴィットが声をあげた。
「いや、失礼・・・。もっと早く気付くべきでした」
ラステルに一礼する。
「間違いない。あなたは、メッテルブルグの貴族階級でも屈指の名家(*8)、ビハウゼン家のご令嬢だ。若い頃、肖像画を見たことがあります」
その肖像画が、さる貴族の屋敷に盗みに押し入った時の戦利品だったことは、ザヴィットも口にしなかった。(*9)
ヴィオラートは目を丸くし、アイゼルは軽くうなずいている。ラステルは力なく微笑んで、
「“ご令嬢”と呼ばれるには、とうが立ちすぎていますわ。王子様が迎えに来てくれるのを待っているうちに(*10)、こんな年になってしまって――」
「ええと、申し訳ありませんけれど、お話の続きを・・・」
アイゼルにうながされ、ラステルは本題に戻る。
「はい。やって来た騎士は、商工ギルドの理事長であるわたしのお父様に告げたのです。ギルド会員が所有している全財産を差し押さえ、王室の管理下に置く、逆らえば、反逆者とみなし厳罰に処す、と」
「そんな・・・」
ザヴィットが息をのむ。
「もちろん、お父様は抗議しましたが、相手はまったく聞く耳を持ちませんでした。ただ、命令だと繰り返すばかりで・・・。そこで、お父様は王様のところへ直接、話をしに行ったのです」
「うむ。メッテルブルグのギルドの長ともなれば、国王へのお目通りも簡単なことですな」
「ですが、お父様は、そのまま牢屋に入れられてしまったのです」
ザヴィットとアイゼルは目を見交わした。そんな理不尽な話があるだろうか。
「お父様は、10日後、すべての要求を受け入れるという条件と引き換えに、釈放されました」
「そんな・・・、ひどい」
「でも、お父様は運がいい方です。他のギルドでは、お城へ抗議に行ったまま帰って来ない人もいたと聞いています。帰って来たお父様も、すっかり元気をなくして、ベッドから起きられなくなってしまって――」
3人は言葉もなく聞いていた。ラステルは悲しみと憤りを懸命に抑えているようだ。
「その頃から、街のあちこちに騎士が見張りに立っている姿を見かけることが多くなりました。かれらは、街の人たちの言葉や行動を細かくチェックして、少しでも王や騎士隊の悪口を言ったり抵抗したりした人を、片っ端から逮捕しました。そして、名ばかりの裁判で有罪を宣告し、牢屋に入れたり鞭で打ったり、好き放題をしているんです。自由に旅に出ることも禁止されました。国境は封鎖されて、誰も国外へ出してもらえません。無理に国境を越えようとすれば、わたしたちのように――」
「恐怖政治だな・・・。フィンデン王国は独裁国家に変わってしまったのか」
ザヴィットがつぶやいた。あごに手を当てて考え込み、続ける。
「しかし、フィンデン王国はここ数十年、デュオニース国王(*11)の下でずっと安定した政治を行っていたはずだ。最近、国王が代わったとか、クーデターが起きたとかの噂も聞かないが――」
ラステルが答える。
「デュオニース国王は、今もご健在です。お年を召してはいらっしゃいますが、わたしたち国民を大切にされ、平和なフィンデン王国を築いてくださいました。その王様が、あんなことをするなんて・・・。きっと、国王はご乱心されてしまったのですわ」
「でも、おかしいわね」
アイゼルが口を挟んだ。
「国王がおかしくなったとしても、側近とか大臣とか、それを止める人がちゃんといるんじゃないかしら?」
「わかりません」
ラステルは首を振った。
「ふむ、少なくとも、メッテルブルグがどんな状況なのかはわかった。そのような事態になった理由はわからんがね。だが、もっと重要なことがある」
ザヴィットがゆっくりと言う。表情は真剣だった。
「どういうことですか?」
ヴィオラートが尋ねる。
「お嬢さんは、歴史の本を読んだことがあるかね?」
「いえ、あんまり・・・」
「どの歴史の本にも書かれていることだが、ある国に独裁者が誕生した場合、やることはひとつだ。まずは、国内を押さえ、財産と軍隊を充実させる。それが終わったら、次にやることは、領土の拡張だ。つまり――」
「他国への侵略、ですね・・・」
ザヴィットの言葉をアイゼルが引き取った。声がかすかに震えている。
「そんな――」
ラステルが声を失った。そこまでは考えたこともなかったのだろう。
「まさか、カナーラント王国を!?」
ヴィオラートが大声をあげる。
「今すぐに、ということはないだろうが、その可能性はあるな」
ザヴィットは重々しく言って、ラステルに尋ねた。
「騎士隊の動きに、なにか特徴的なことはありませんでしたか?」
「よくわかりません。ただ、アデルベルトさんが言っていたんですけど、騎士団は王国の北東の国境の方に多く配置されているらしいです。だから、西の『大貫洞』方面は手薄になっていて、わたしたちもなんとか国境を越えることができたんです」
「ふむ、フィンデン王国の北東か・・・」
ザヴィットが考え込む。
「北東には、どんな国があるんですか?」
アイゼルの問いに答えたのはラステルだった。
「ああ、なんてこと――。狙われているのは、マッセンだわ」

アイゼルの提案で、ハーブティをいれて一休みすることになった。
香り高いお茶をすすりながらも、心は休まらない。楽しい話題を無理に持ち出しても、宙に浮いて、いつの間にか消えてしまう。
「マッセンというのは、どんな国なんですか」
お茶のお代わりを注ぎながら、アイゼルが尋ねる。ザヴィットは記憶をたどるように答える。
「マッセンは、小さな国だ。カナーラント王国も小さい国だが、マッセンは比べ物にならないほど小さい。農業をはじめとする産業はいくつかあるが、そう栄えているとは言えない。まともな軍隊もないはずだ。侵略しようと思えば、これほど簡単な獲物もないのではないかな」
「そうですか・・・」
つぶやいたアイゼルは、思いをめぐらすようにお茶をすすった。ラステルに向き直る。
「ところで、ラステルさん、『大貫洞』で会った時、わたしたちが錬金術士かと質問されましたよね。――いえ、わたしたちが錬金術士だとわかっていたような口ぶりだったわ。あれは、どういう意味だったのですか?」
「そうだったわね」
ラステルは再び話し始めた。
「メッテルブルグがひどいことになってしまっているのに、わたしはどうしていいかわからなかった。でも、いろいろと考えているうちに、ユーディーのことを思い出したの」
「ユーディー?」
「わたしの親友・・・だった人よ。ずっと昔、とても仲よくしていたの。彼女は、メッテルブルグに工房を開いていてね。不思議なものを創るのが得意で、一緒にいると、とっても楽しかった。あちこち冒険にも行ったし、魔物をやっつけたりもしたわ」
「あ、もしかして、その人って――」
ヴィオラートが息をのむ。ラステルはうなずく。
「そう。ユーディーは、錬金術士だったの」
「グラムナートに、他にも錬金術士がいたなんて・・・」
「ユーディーだったら――、ユーディーがいてくれたら、何とかしてくれるかも知れない。そう思ったのよ。だって、ユーディーは何でもできたもの。『錬金術に不可能はない』って、何度も言ってたわ。でも・・・」
夢見る少女のような光をたたえていたラステルの瞳がくもった。
「もう、ユーディーはいない・・・。遠いところへ、帰って行ってしまったの」
「外国の人だったんですか?」
アイゼルの方に視線を向けながら、ヴィオラートが尋ねた。アイゼルは眉をひそめ、何事か考え込んでいる。ラステルは寂しそうに微笑み、否定も肯定もしなかった。
「錬金術士なら、フィンデン王国を救ってくれるかも知れない・・・。だけど、今は王国には錬金術士はいない・・・。ユーディーがいた頃、もうひとり錬金術士がいたようだけれど、その人もいつの間にかいなくなってしまったわ。ちょっと怖くて不気味で、近寄りがたい雰囲気の人だったから、あまり付き合いはなかったけれど(*12)
アイゼルが小さく息をのんだ。緑色の瞳が大きく見開かれる。
それに気付かず、ラステルは遠くを見るようなまなざしで、つぶやくように続ける。
「そんな時、食料品を納めに来た商人が、うちの執事に話しているのを耳にしたの。隣のカナーラント王国に、怪しげな術を使う女の子がいるって」
「それって、もしかしてあたしのこと・・・?」
ヴィオラートが情けない声を出す。
「ただの噂話だったけれど、わたしは直感したわ。錬金術士に違いないって。だって、ユーディーも最初はそんなふうに言われていたもの」
ラステルは、さめたお茶をすすった。さりげなくアイゼルがお代わりを注ぐ。
「そう考えたら、もういてもたってもいられなくなったわ。どうしても、カナーラントへ行って、その錬金術士に会わなければ・・・って。それで、酒場へ行って――」
「あの冒険者を、護衛として雇ったのだね」
ザヴィットが引き取った。
「はい。アデルベルトさんは、ユーディーがいた頃に、何度か一緒に冒険に出たこともあるし。それに、他に信頼できる冒険者の知り合いは、メッテルブルグにいなかったから」
ラステルは、その後の冒険を一気に語った。
夜中にメッテルブルグを抜け出して、行ける所までは馬を使い、残りは徒歩でひたすら西へ向かったこと。『大貫洞』の手前で、街道を見張っていた数名の騎士に発見され、戦いになったこと。その場はなんとか切り抜けたが、その戦いでアデルベルトがひどい傷を負ってしまったこと。そして、『大貫洞』の中で新手の騎士隊に追いつかれ、もうだめだと思った時に、ヴィオラートの一行に助けられたこと。
最後に、ラステルはヴィオラートとアイゼルを交互に見つめ、これまで以上に真剣な表情で言葉を継いだ。
「これは、わたしの勝手な思い込みかも知れないけれど、フィンデン王国を救えるのは錬金術士しかいないと思うんです。ですから、お願い、力を貸してください」
しばらく、沈黙が落ちた。外の雨脚が強まったらしく、屋根を叩く雨音だけが響く。
ヴィオラートは、困ったように身じろぎして、アイゼルを見やった。自分には決断はできない。何かしなければという気持ちは強いが、どうしたらいいのかわからない。
アイゼルが、すっと息を吸った。静かに口を開く。
「できることは、します」
そして、ラステルの耳に口を寄せ、ふたことみことささやいた。
ラステルは大きく目を見開き、両手を口に押し当てる。目がうるんだ。
「そうだったの・・・! ありがとう・・・」
「さあ、もうお疲れでしょう。ゆっくり休んでください」
アイゼルが優しく言葉をかけ、ラステルは素直にベッドに身を横たえた。
ここへ来て初めて見せる、安らいだ表情だった。


廊下へ出ると、でっぷりと太った男が大きなかごを抱えて、階段を上ってくるところだった。
「やあ、元気でやってるねえ〜」
愛嬌のある顔で、にこにこして言う。隣の食料品店の店主、リーマンだ。
「さっき、うちの実験農場(*13)で採れた野菜を持って来たんだねえ。栄養満点だから、きっと病人の身体にもいいと思うんだねえ。ぜひ料理に使ってやってほしいねえ〜」
「あ、はい、いつもありがとうございます」
ヴィオラートはぴょこんと頭を下げて、にんじんやキノコが入ったかごを受け取る。
リーマンは満足そうにうなずきながら、帰って行った。
ずんぐりした後姿を見送りながら、ヴィオラートは苦笑した。リーマンが差し入れしてくれる野菜は、かなり珍しいものばかりなのだが、なぜかどれも傷んでいたり、腐りかけだったりする。病人食の材料にはとても使えず、ヴィオラートの錬金術の調合の材料になっている(*14)
かごを持って、階段の脇の部屋へ入る。アイゼルとヴィオラートが共同で泊まっている部屋だ。ふたつのベッドの他に、飾り気のない木のテーブルが置かれているのが宿の他の部屋との違いだ。テーブルの上にはガラス器具や乳鉢、遠心分離機にランプといった調合道具が並べられ、簡単な錬金術の調合ができるようになっている(*15)
先に部屋へ入っていたアイゼルが振り返る。いつになく真剣な表情だ。
「ヴィオラート、手伝ってちょうだい」
「あ、はい。でも、何をするんですか?」
「これよ」
アイゼルは、手に持っていた本のページを開いて見せた。ヴィオラートが読んだことのない本だ。
「ええと・・・『風の便り鳥』(*16)?」
「そう、大急ぎでそれを作るのよ。幸い、材料は手元に揃っているわ。『アイヒェ』も『ぷにぷに玉』もね」
「でも、これを作ってどうするんですか?」
アイゼルはヴィオラートに流し目をくれ、話題を変えた。
「今回のことは、どう見てもわたしの手には余るわ。何をしたらいいのかわからない」
「そんな――!? さっき、ラステルさんに『できることはする』って」
あわてるヴィオラートにアイゼルは落ち着いた口調で言う。
「そうよ。だから、今できる最善のことをするのよ」
ヴィオラートは納得できない表情だ。アイゼルは続ける。
「このアイテム、『風の便り鳥』を使うとね、遠くにいる人に何よりも早く手紙を送ることができるわ。これを使って、ザールブルグにいるわたしの先生に連絡を取ろうと思うの」
「アイゼルさんの、先生・・・」
「先生なら、何をするべきなのか、わかると思うわ」
「でも、それじゃ、時間がかかっちゃいますよ!」
「ヴィオラート。では、今のあなたには、何ができるのかしら?」
「それは――」
「わたしたちだけで、闇雲にフィンデン王国へ向かったところで、騎士隊に捕まるのが落ちよ。とにかく、情報が少なすぎるわ。ラステルさんの言っていることが間違いだという可能性もあるわけだし」
「そんな――! ラステルさんが嘘をついているって言うんですか!?」
「わたしだって、本気でそんなことは思っていないわ。でも、あらゆる可能性を考慮しなければいけないことは確かね」
「でも、でも――」
「ヴィオラート。気持ちはわかるわ。だけど、よく考えて。最初の一歩を間違えたら、取り返しのつかないことになるかも知れないのよ。いい? 自分にできることを考えるのも大切だけれど、自分に何ができないかを判断することは、その何倍も大切なことよ」
「うー」
黙り込むヴィオラートに、アイゼルは微笑んで見せる。
「大丈夫。まだ時間はあると思うわ。ラステルさんも、わたしの先生に相談すると言ったら、喜んでくれたし」
「そういえば・・・」
ヴィオラートは、アイゼルがささやきかけた時のラステルの表情を思い出した。
「でも、どうして・・・?」
アイゼルは、細工道具や乳鉢を揃えながら答えた。
「先生なら、フィンデン王国のことにも詳しいはずだしね」
「へ? それって・・・?」
「ラステルさんが、昔、ユーディーという人の他に、もうひとり錬金術士がいたと言っていたでしょ」
「はい、ちょっと不気味で怖かったっていう」
アイゼルは、複雑な表情を浮かべて言った。
「その人が、わたしの錬金術の先生――ヘルミーナ先生なのよ」


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