第5章 出番だ先生(*1)
深夜だった。
別の世界ならば、“丑三つ時”と呼ばれる時間帯だ。
この時刻、人々の眠りはもっとも深く、明日の学業や仕事に備えてベッドで心と身体を休めている。
市民の穏やかなまどろみを包み込んで、ザールブルグの街も静かに眠りについていた。
街の外門や、街を取り囲む城壁のそこここには不寝番の兵士が見張りに立っているが、市民の安息を乱すのを恐れるかのように、身じろぎもせず言葉を交わすこともない。かれらの願いはただひとつ――、自分が腰に差した剣を抜くような事態が起こらないことだ。
シグザール王国の王都、城塞都市ザールブルグ。
これまで過ごしてきた無数の夜と変わりなく、今宵もザールブルグは平和だった。
ひときわ高いシグザール城の城壁に立ち、青白い月光に照らされ、涼風に黒髪をなびかせながら、王室騎士隊長エンデルク・ヤードはザールブルグの街並みをじっと見下ろしていた。
いつも城門や謁見室で警護の任についている時と異なり、今宵のエンデルクは青い聖騎士の鎧を身に着けてはいない。護身用の細身の剣だけを腰に差した、黒い肌着姿のままだ。しかし、城壁にすっくと立つその姿を目にする者がいたならば、普段は鎧姿の下に隠されている鋼のような筋肉を目の当たりにして、余計に威圧感をおぼえたに違いない。
聖騎士の鎧をまとっていようが脱ぎ捨てていようが、“ザールブルグの剣聖”の本質には変わりはない。国を守り、ひいては民衆の平穏な生活を守り抜くことが、その使命なのだ。
だが、安らかな眠りに沈む街並みを冷徹な視線でながめているエンデルクの心は、外見とは裏腹に荒れ騒いでいた。
(何だったのだ、あれは――?)
一瞬、眼下の平和な街並みが、夢の中で破壊しつくされていた街の姿と交錯する。
今宵、非番のエンデルクは、先ほどまで城内の私室で眠りについていた。
もちろん、短時間でも熟睡でき、異変があれば直ちに目覚めるよう訓練を積んでいる。戦場では、そうしなければ、戦い抜き、生き延びることはできない。
しかし、今夜のエンデルクは、異様な夢に眠りを乱された。こんなことは、これまで体験したことがない。心を落ち着け、じっくりと考えをめぐらすために、深夜の城壁に出て来たのだった。
街の外に広がる平原から吹き寄せる風に身をさらしながら、夢の光景をひとつひとつ吟味していく。
たったひとりで、剣を手に見知らぬ街の中に立っていたこと。
不意に稲光がひらめき、雷撃に打ち砕かれた家々から恐慌に陥って逃げ出してきた無数の人々。
それを追うように出現した、邪悪な波動を放つ無数の黒い影。
雷鳴がとどろき渡る中、形も定かでない黒い影を切り捨てつつ、街路から街路へと駆け抜けたこと。
街の中央広場と思われる場所にたちこめていた闇のように黒い霧と、その向こう側で、消え入りそうになっていた虹色の輝き。
そして、目覚める直前、霧の中から立ち上がった邪気に満ちた巨大な影。
普通の人間ならば、ただの悪夢と切り捨ててしまったかも知れない。気分直しに強い酒でもひっかけて、もう一度まどろみに落ちるのが普通だろう。
だが、エンデルクには引っかかるものがあった。それは、論理的思考から導き出されたものではなく、剣士としての本能だった。
この夢には、なにかがある。
でなければ、これほどまでに激しい胸騒ぎをおぼえるはずがない。
夜気にあたって冴えた頭で、もう一度、夢の中身を思い出してみる。
嵐のような雷に打たれ、影のような妖魔に蹂躙されて、崩壊していく見知らぬ街――。
エンデルクは、はっと目を見張った。
本当に、あの街は見知らぬ街だったのだろうか。
心の奥底に眠っていた記憶がよみがえり、つぶてのようにエンデルクを打つ。
あの街は――!!
夜明けの曙光が東の台地から差し初めてくるまで、エンデルクは微動だにせず城壁に立ち尽くしていた。
朝の日差しが、ザールブルグ・アカデミーの中庭に降り注ぎ、参考書や採取かごを手にそぞろ歩く生徒たちを照らしている。
授業の始まりを告げる澄んだ鐘の音(*2)が、涼やかな大気の中に響き渡る。
錬金術を教える王立魔法学院ザールブルグ・アカデミーは、シグザール城の次に大きな建物だ。街の東部にあり、母体であるケントニス・アカデミーを模した白亜の姿を陽光にさらしている。中庭には、創設時に植えられた木々(*3)が大きく枝を伸ばし緑の葉を広げ、野鳥のさえずりが葉ずれの音と交じり合って、のどかな雰囲気をかもし出している。
穏やかで明るい外の風景とは対照的に、アカデミー事務棟2階の奥にある校長室は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
楕円形のテーブルを囲み、ひとりの老人とふたりの女性が難しい顔で考えに沈んでいる。アカデミー校長のドルニエと、教師を務めるイングリドとヘルミーナだ。3人とも、かつて錬金術の普及のためにケントニスからザールブルグへ渡って来て、苦労の末にアカデミーを建設した創設メンバーである。もうひとりの創設者であるリリーは、今は遠く離れた南の国のアカデミーの校長をしていて、わずかではあるが留学生の交流なども行われている。(*4)
テーブルの中央には、色あせてぼろぼろになった木製の鳥の模型と、びっしりと文字が書き込まれた数枚の紙が置いてあった。
ドルニエが口を開く。
「もう一度きくが、これが当アカデミーの卒業生アイゼル・ワイマールからの手紙であることは、間違いないのだね、ヘルミーナ」
「言うまでもないことですわ」
今さら何を言っているのだ、とでも言いたげな表情を浮かべて、ヘルミーナがうなずく。薄紫色の髪を軽く束ねて髪飾りで止め、黒の錬金術服に濃紺のローブをはおっている。左右の色が異なる瞳で鋭い視線をテーブルに走らせ、
「この筆跡は間違いなく、マイスターランク卒業生アイゼルのものです。手紙を運んできた『風の便り鳥』の痛み具合から見ても、かなりの長距離を飛んできたことは明白です。――それにしても、こんなちゃちな模型の鳥が、よれよれになりながらもよくたどり着いたものだわ、ふふふ」
アイゼルは、アカデミーではヘルミーナの下で学び、マイスターランクを卒業した後、ただひとりで旅に出た。自分を見つめなおし、鍛えるために――という言葉を残して。それは、若くして各地を放浪し、修行に励んだ師のヘルミーナを見習ってのことだったのだろうか。
「で、ヘルミーナ、あなたは、わたくしたちにどうしろと言うの?」
イングリドが尋ねる。いでたちはヘルミーナとよく似ているが、髪は薄水色で、藤色の錬金術服と白いローブを身に着けている。ヘルミーナと並ぶと、黒魔術師と白魔術師のように対照的だ。(*5)
今朝早く、ヘルミーナが持ち込んで来てから、イングリドもドルニエも繰り返しアイゼルからの手紙を読んでいる。内容はもう暗記してしまったほどだ。
「ひとつだけ確かなことは、フィンデン王国でなにか異変が起っていて、アイゼルが助言を求めてきているということだわ。このあたしにね」
イングリド鋭い視線を向けながら、ヘルミーナが言う。
「ふむ・・・。だが、これは果たして、われわれが関わるべきことだろうか。遠い異国の出来事でもあるし」
ヘルミーナはきっとドルニエを見すえ、声を荒げて師の言葉をさえぎる。
「ドルニエ先生! 先生はいつから、事なかれ主義になってしまったのですか!?」
「あ、いや、すまない。そんなつもりでは――」
ドルニエはしどろもどろになる。
イングリドは冷ややかに師を見た。こういう時は、この人は頼りにならない(*6)。それは昔からのことだ。どうやら、この会議はヘルミーナが主導権を握りそうだ。いやな予感が心をよぎる。
「とにかく、この件は、王室へ報告すべきです」
イングリドは進言した。
「たとえ、遠い国の出来事であろうと、国際的な異常事態には違いありません。シグザール秘密情報部(*7)へ報告し、判断を仰ぐべきです」
「ふむ、それも道理だな」
責任が自分の肩から他へ移ることを考えたせいか、ドルニエはほっとした表情でうなずく。
だが、ヘルミーナは聞いてもいない様子だった。
「気になるのは、ラステルが錬金術士に助けを求めてきたということだわ・・・」
ひとりごとを言うように、ぶつぶつとつぶやく。
「あの娘は、現実が見えていないとろいお嬢様だったけれど、直感力は優れていた。その彼女が、錬金術士が必要だと言って来たからには・・・」
「そうか、君は若い頃、フィンデン王国を旅したことがあるのだったね」
思い出したようにドルニエが言う。
師の言葉を無視し、ヘルミーナはイングリドに言い放った。
「王室へ報告するなら、すればいい。それはあなたの勝手よ。でも、とにかく、あたしはグラムナートへ行くからね!」
「ヘルミーナ! そんな勝手なことができるわけはないでしょう!」
イングリドが叫ぶ。
「あなたの担当の授業や、生徒たちはどうなるの?(*8)」
ヘルミーナとイングリドはアカデミー講師陣の中では双璧だ。ひとりでもいなくなってしまったら、大幅なカリキュラムの変更を余儀なくされることになる。
「あなたに任せるわよ、イングリド」
「そんな無茶な――!」
目をむくイングリドに、ヘルミーナは意味ありげに笑ってみせる。
「そりゃ、あなたひとりでは無理でしょうね。でも、成績優秀な弟子がいるでしょう? この前も、かれらはもう一人前になったと自慢してたじゃないの。ふふふふ」
「確かに、ノルディスもエルフィールも、十分に講師は務まると思うけれど。特にあなたの代わりならね」
イングリドは、アイゼルと同期の愛弟子の名前を挙げた。
「だけれど、本当にあなたが出張っていく必要があるのかしら?」
「大ありだよ」
ヘルミーナは笑みを浮かべる。
「かわいい弟子のアイゼルが、助けを呼んでいるのよ。師匠としては、教え子が困っているのを放っておくわけにはいかないじゃないの」
「そんなしおらしい理由かしら? ただの野次馬根性じゃないの?」
イングリドの嫌味を、ヘルミーナは黙殺した。念を押すようにドルニエを見て、
「よろしいですね、校長」
「あ、ああ、イングリドがそれでいいと言うのなら・・・」
相変わらず主体性がない。
「わたくしがだめだと言っても、状況は変わらないのでしょう?」
さじを投げた、といった様子で、イングリドは肩をすくめた。
「それにしても、ヘルミーナ、そんな遠いところまで、どうやって行こうというの?」
ザールブルグからグラムナートへ行くには、広いストウ大陸を東へ向かって横断しなければならない。陸路を使うにしても船で行くにしても、普通のやり方では半年以上はかかる。
「ふふふ、ちゃんと考えてあるわよ」
ヘルミーナは席を立ち、ドアへ向かう。
「イングリド、手伝ってちょうだい」
「はあ?」
「倉庫に、昔リリー先生が使っていた“あれ”(*9)がしまってあるわよね。大急ぎで生命付与をしたいの。ひとりより、ふたりの方が作業がはかどるわ。できれば今夜中に出発したいからね。ふふふふ」
「なるほど・・・。“あれ”ね」
イングリドは軽くうなずいた。こうなっては、ヘルミーナを止めることはできない。どうせなら、早く出発してもらった方が始末がいい。
ヘルミーナに続いて校長室を出て行きながら、イングリドはドルニエを振り向いた。
「ドルニエ先生、王室への報告は、お任せしてよろしいですね?」
「あ、ああ、わかった。すぐに城へ行って来るよ」
アカデミーの地下倉庫に通じる廊下を歩きながら、イングリドはヘルミーナに言った。
「あなたに言っても無駄かも知れないけれど、くれぐれも無茶はしないでちょうだいね。アカデミー関係者が国際紛争を引き起こしたなんて事態はごめんですからね」
「その点は、信用してもらって大丈夫よ、ふふふ」
「さあ、どうだか」
「それより、イングリド――」
ヘルミーナが振り向く。いつになくまじめな表情だ。
「応援が必要になったら、すぐに連絡するからね」
「ヘルミーナ・・・」
ヘルミーナは普段から秘密主義で、何でも自分ひとりだけで決着を着けようとする。そのヘルミーナの口からこのような言葉が出るとは意外だった。それだけ、事態を深刻に受け止めているということなのだろうか。
「もちろん、万が一の場合だけれど。ふふふ」
ヘルミーナは再び先に立って歩き出し、ひとりごとのようにつぶやく。
「腕利きの錬金術士が、もう何人か必要になるかも知れないねえ・・・」
次の日の朝。
シグザール城の中庭には、王室騎士隊の精鋭が揃っていた。夜番と昼番が交替し、隊長から訓示が行われる。勤務明けの夜番の騎士は疲れた顔を見せないよう最後の元気を見せ、これから勤務に就く騎士たちは寝足りて元気いっぱいだ。
ひときわ張り切っているのは、昨年、分隊長に昇格したばかりのダグラス・マクレインだ。がっしりした身体に精悍な顔つき、聖騎士の鎧の色をそのまま映しているような青い瞳にはやる気がみなぎっている。毎年、年末に開催される王室主催の武闘大会では常に決勝に進み、いまや名実ともに、エンデルクに続く騎士隊ナンバーツーの地位を占めるに至っている。もちろん、本人はそれに甘んじるつもりはない。
ダグラスを始めとする4人の分隊長が最前列に並び、分隊を構成する聖騎士(*10)が後ろへ整列する。全員が、磨き上げられた青い鎧に身を包み、その姿はまさに“ザールブルグの蒼の煌めき”(*11)と呼ばれるにふさわしい。
直立不動の姿勢を保ったまま、騎士隊長のエンデルクが現れるのを待つ。
だが、現れたのはエンデルクの黒髪ではなく、日差しに輝く金髪だった。
「敬礼!」
意外な思いを表情に出すことなく、シグザール王室騎士隊は、第1分隊長ダグラスの号令で全員が敬礼する。
王室騎士隊特別顧問ウルリッヒ・モルゲン卿は、年齢を感じさせない若々しい仕草で答礼する。
ウルリッヒは、かつてはシグザール王室騎士隊副隊長を務め、エンデルクが現れて隊長の座についてからは現役を引退し、特別顧問に就任して国政を動かす重責を担っている。王室最高会議(*12)のメンバーでもある。
手をあげて、楽にするよううながすと、ウルリッヒはおもむろに話し出した。
「諸君、突然の話だが、エンデルク隊長は国王の重要な密命を帯びて、国外へ赴くことになった。彼は、昨夜すでに出立した。任地、帰還時期その他は、極秘だ。諸君らも知る必要はない」
騎士隊からざわめきが起こる。意外そうな表情を浮かべる者もいる。なぜならば、これまでもエンデルクが単独任務に出ることはあったが、その際、自ら隊員たちに告げて行くのを常としたからだ。
ウルリッヒはざわめきが収まるのを待ち、口を開く。
「エンデルクの不在中は、騎士隊規約にのっとり、隊長代行はこの私が務める。しかし――」
言葉を切り、ダグラスを見る。
「私も歳だ(*13)。本来の公務も忙しい。よって、隊長代行権限により、シグザール王室騎士隊の指揮権を第1分隊長、ダグラス・マクレインに委譲することとする」
「はあ!?」
思わずダグラスがすっとんきょうな声を上げる。ウルリッヒは微笑み、
「つまり、エンデルクが戻るまでは、ダグラス、お前が事実上の隊長ということだ。よろしく頼むぞ」
そして、茫然としているダグラスの肩をどやしつける。
「こら、復命はどうした」
「は、はいっ!」
ダグラスはぴんと背筋を伸ばした。
「ダグラス・マクレイン、シグザール聖騎士隊の指揮権を拝命いたします!」
「ふむ、少し言葉の使い方が間違っているが、まあよかろう」
そして、全員を見渡し、
「なにか質問は?」
ダグラスが切り返す。
「エンデルク隊長の任務が極秘だって言うんだから、質問のしようがないじゃないですか」
騎士たちはどっと笑った。
ウルリッヒもにやりと笑い、一歩下がってダグラスに合図する。
ダグラスは進み出て、騎士たちに相対した。これまでになく心が高揚している。初めて武闘大会の決勝でエンデルクと対戦した時(*14)以来だ。
「よし、隊長代行として命令する――。ええと・・・」
しばらく視線を宙にさまよわせて言葉を探した後、意を決したように初めての命令を下した。
「――解散!!」
ザールブルグの下町『職人通り』は、街でもっとも活気にあふれた場所だ。
石畳の道の左右に、数々の店や工房、酒場などが立ち並び、朝早くから足早に行き交う人々でごった返している。お客を呼び込む商人の声、遊びまわる子供たちの歓声、噂話に興じるおかみさんたちの甲高い声、朝っぱらから酒場でくだを巻く酔っ払いのだみ声が、『職人通り』をやかましく彩る。
人波を器用に避けながら、イングリドは石畳の舗道に歩を進めていた。
目指す工房は、『職人通り』の奥まった場所にある。
ほとんど目立たない小さな看板に目をとめ、イングリドは微笑んだ。人気と評判が高ければ、大きな看板は必要ないのだ。
看板には、『エリーのアトリエ』と記してあった。
工房のドアをノックする。
「は〜い、開いてま〜す!」
いつも変わらぬ明るい声に迎えられ、工房に足を踏み入れる。
「あ、イングリド先生」
調合用の大釜をかき混ぜていた(*15)小柄な女性が、顔を上げる。オレンジ色の錬金術服を着て、頭にも同じ色の輪っかになった帽子をかぶっている。アカデミーのイングリド教室の卒業生のひとり、エルフィール・トラウム(愛称エリー)だ。
エリーはシグザール王国西部にあるロブソン村の出身だ。村で流行り病にかかって生死の境をさまよっていた時、たまたま村を訪れた錬金術士マルローネに命を救われ、それがきっかけで自分も錬金術士になろうと志した。そして、補欠ながらアカデミーに入学し、工房を運営しながら自活するという厳しい条件にもかかわらず優秀な成績を収め、マイスターランクへ進学した。卒業後は、生活に密着した錬金術の追求をテーマとして新しい工房を開き、街の人々の依頼に応えつつ、自身の錬金術の研究も進めている。大先輩のマルローネがいるケントニスへ渡って研究に専念するという選択肢も考えているようだが、まだ実行には移していない。
「なにかご用ですか、先生?」
にこやかな弟子の笑顔を目にして、イングリドの顔もほころんだ。
「ずいぶんがんばっているようね。あなたの工房の評判は、アカデミーまで届いていますよ」
「いえ、そんな・・・。あたしなんか、まだまだ」
「ほほほほ、謙遜しなくてもいいのよ。それにしても――」
こぎれいに片付けられた工房を見回す。以前から掃除嫌いで、アカデミーから貸し与えられた工房を汚すことが多かったエリーだが、今は『生きてるホウキ』(*16)を上手に使っているのだろう。
「工房へあなたを訪ねるのは、昔は小言を言うためばかりだったのにね」
「えへへ・・・」
照れ笑いをしたエリーは、工房を手伝っている妖精のひとりに、お茶をいれてくるよう合図した。
「今日、わたくしが来たのはね」
イングリドは用件を切り出す。
「妖精さんを、ひとり借りたいのよ」
「へ? 妖精さんをですか?」
「そうなの。大急ぎで、ケントニスと連絡を取りたいのでね」
「ああ、なるほど」
通常、ケントニスとザールブルグの間は、馬車と定期連絡船を介した郵便が行き来している。書籍を送ったり、緊急性のない文書のやり取りにはこれが利用されているが、急を要する手紙を送りたい時は別の手段がある。
錬金術士が採取や調合の手伝いに雇っている妖精は、小さな子供のような姿をしているが、人間にはない優れた能力をいくつも持っている。遠い場所へも一瞬で移動できるという能力も、そのひとつだ。その能力は、王室でも重用されているし(*17)、すぐに手紙を届けたい時にも利用される。ただ、その際、妖精族から請求される料金はべらぼうに高いので、乱用は慎まなければならないが。
エリーはうなずいて、ちょうど『ミスティカティ』のカップを載せたトレイをよちよちと運んできた、紺色の服を着た妖精に声をかけた。
「あ、ピコ、ちょっといい?」
「は、はい・・・。何でしょうか?」
ピコはおずおずと答える。エリーが雇っている妖精の中では一番の古株で、経験も豊かだし腕も確かなのだが、極端に気が弱い(*18)のが玉に瑕だ。
「あのね、イングリド先生のご用事で、ちょっとケントニスまで手紙を届けてほしいの。いい?」
「ええっ!?」
ピコが息をのむ。さりげなくエリーがきく。
「ん? どうかした?」
「・・・いえ、何でもないです」
「それじゃ、お願いね」
と、エリーはイングリドが取り出した手紙を紺妖精に渡す。
「ううう、ボクにできるかなあ・・・。行って来ます・・・」
涙声でつぶやくように言うと、ピコは虹色の光に包まれて消えた。
イングリドが心配そうに尋ねる。
「ちょっと、大丈夫なの? あの妖精――」
「あ、心配ないですよ」
けろっとしてエリーが答える。
「頼りないのは、見かけだけですから」
「そう、あなたが言うなら安心ね」
「ところで、何の手紙だったんですか?」
「ほほほ、秘密よ」
笑って答えたイングリドだが、心の中では別のことを考えていた。
(そのうち、あなたの手を借りることになるかも知れないけれどね)
エリーの工房を辞し、アカデミーへ帰る道すがら、イングリドは思いをめぐらせ続けていた。
(もう、ヘルミーナったら、あんな思わせぶりな言葉を残していくなんて――。気になって仕方がないじゃないの!)
腕利きの錬金術士が、もう何人か必要になるかも知れない――。
今ごろヘルミーナは、一路東へ向かっていることだろう。
(わたくしが何の手も打っていなかった、なんてことは言わせませんからね!)
こうなれば、意地だ。
とりあえず、あのふたりを呼び戻しておこう。
何事も起きなければ、それもよし。
久しぶりにマルローネとクライスの罪のない言い争いを聞くのも、いい気分転換になるかも知れない。
それにしても、あのふたり、少しは進展があったのだろうか。(*19)
城内へ戻ったウルリッヒは、シグザール城の最奥部にある狭い部屋へ足を踏み入れた。
眼鏡をかけて地味な服を着た、初老の風采の上がらない男が、机に向かってなにか書き付けている。
「済んだかね」
ウルリッヒが向かい合った椅子に腰を下ろすと、男は顔を上げて尋ねた。
「ああ。打ち合わせ通りにな。エンデルクは極秘任務に就いたと言っておいたよ」
「そうか。ご苦労だったな」
「当座の指揮権はダグラスに委ねた。猪突猛進型だから、いささか心配だが」
「まあ、大丈夫だろう。幸い、今のところ近隣諸国に不穏な様子はないからな」
「それにしても――」
ウルリッヒは、聖騎士ひとりひとりの顔を思い浮かべ、くちびるをかんだ。
「かれらに事実を伏せておくのは心苦しかった。だが、やむを得ない。卿の考えが正しいよ」
「まったくだ――」
男は、椅子の背もたれにだらしなく寄りかかって、肩をほぐした。
「王室騎士隊長が、書置きを残して行方をくらましたなんて、あの連中に言えたもんじゃない」
シグザール王国秘密情報部長官ゲマイナー(*20)は、机から取り上げた白い封筒をもてあそびながら言った。
ウルリッヒは、自分に言い聞かせるように言葉を継ぐ。
「だが、私はエンデルクを信じるぞ」
「俺もさ」
短く答えると、ゲマイナーは机に広げた別の紙を手に取る。
「それにしても、フィンデン王国か・・・。厄介なことにならなきゃいいが」
昨日、アカデミー校長のドルニエから届けられた、フィンデン王国の異変を知らせるアイゼルからの手紙だ。
「とにかく、打てる手は打っておかんとな」
「よろしく頼む。貴公が頼りだ」
ウルリッヒは立ち上がり、部屋を出る。
「陛下にも、報告しておくよ」
「ああ」
ものうげに手を振ると、ゲマイナーは再び机に向かい、猛然と文書をしたため始めた。