第15章 夕焼け雲と草原と(*1)
リサの村は、午後の穏やかな日差しに包まれている。
放牧地の柵につながれた牛がのんびりと草を食み、広場に放し飼いにされたニワトリは餌を求めて地面をつつき回る。収穫が済んで空き地となった畑のうねを縫って、子供たちが走り、歓声をあげている。食品量販店(*2)からは大鍋で煮立てるシチューの香りが漂ってくる。
いつも変わらぬ、平穏な風景だった。
少なくとも、村の中では。
メッテルブルグまで延びている『小麦街道』に面した村の入口には、物見のやぐらが組み上げられ、昼夜を分かたず村人が交代で見張りに着いている。街道と、その脇に広がる草原には丸木を針金で組み上げたバリケードがいくつも置かれ、馬に乗った騎士の接近を阻んでいる。その他にも、落とし穴やかすみ網といった仕掛け罠が無数に作られ、村に近づこうとする部外者は例外なく痛い目に遭うことになる。本来は、作物を荒らす野獣を防ぐために考案された罠だが、獣よりも厄介な相手に対しても十分に効果を発揮しているようだ。
リサから南へ歩いて数日の場所、『開拓者の碑』(*3)の周辺にはフィンデン神聖騎士団の二個分隊が常駐し、街道を封鎖している。毎日のように、数騎の騎兵が村の近くまで現れ、威嚇するように歩き回っているが、それ以上手を出してくることはない。リサの村民を村へ閉じ込めておき、外部からの接触を絶つ――それだけで、当面は満足しているかのようだ。
「だからって、どうってことはないさ。飢饉や日照りに比べれば、楽なもんだ。俺たちには、何でも揃ってる」
マルティンは言った。
確かに、ここ数年は豊作の年が続いたため、保存用に加工された野菜と果物、穀物類は村の倉庫に豊富に蓄えてある。この秋の収穫も、メッテルブルグに出荷することができなかった分、たっぷりと残っている。村が封鎖されていようと、ひと冬は楽に過ごすことができる。
「こうなりゃ、根比べだ。そのうち、風向きも変わるだろうさ」
「本当に、そうかしら?」
楽天的なマルティンに、地図から目を上げたメルは答えた。
村役場の会議室にしつらえられた、“リサ防衛隊”の作戦本部である。
最初に騎士隊がやって来て、村の資産の接収を命じた時、理不尽な命令をメルは即座に拒否した。剣と力に物を言わせて命令に従わせようとした20人の騎士をメルとマルティンは一手に引き受け、叩きのめして村から放り出してやった。
その日のうちに、村民集会が開かれ、事実をただすためにメッテルブルグへ特使を送り出すことと、万が一に備えて防衛策を立てることが決議された。防衛隊のリーダーに任命されたメルは、さっそく村人を組織化し、作戦を練った。過去に魔物の群れに襲われた事件が教訓となっており、村人たちは若い頃から自衛のための戦いの訓練を自主的に行ってきている。リサを専守防衛の砦とすることは、さほど難しいことではなかった。
メッテルブルグへ派遣された特使は、戻って来なかった。その代わりにやって来た青い鎧の騎士団は、『開拓者の碑』の周囲に陣地を築き、それ以来ずっとにらみ合いが続いている。時おり、騎士の挑発に乗せられた村の若者が飛び出していって小競り合いが演じられることもあったが、メルは冷静に状況を見守り、最小限の被害で村を守り続けていた。
シュルツェ一家の伝令が騎士団の目を盗んで定期的にリサを訪れ、クリスタからの情報をもたらしてくれるため、他の街の様子を知ることができたが、あまり楽観視できる状況とは言えなかった。
「このままでは、手詰まり状態だわ。確かに、わたしたちはリサを守ることはできる。でも、他の街はもっとひどい状態よ。なんとかしなければ――」
「そうは言ってもよ、俺たちはここを守るだけで精一杯だ。あんたひとりが出て行ったところで、騎士団全員を相手にすることはできない。それに、なんで王国がこんなことになっちまったのかさえ、皆目見当がつかないんだぜ」
「それは、そうだけど――」
メルはくちびるをかんだ。
「さあ、次の罠の配置と見張りの再編成を済ましちまおうぜ」
マルティンが村の周辺の地図にかがみこんだところへ、若者がひとり、息を切らせて駆け込んできた。
「大変だ! 子供がふたり、いなくなった!」
「何ですって!?」
メルが弾かれたように立ち上がる。
「ああ、ペーターとピエールだ(*4)。放牧地で逃げた子ヤギを追っかけてるところをマルタのかみさんが見たらしいんだが、それっきり――」
「わかったわ!」
メルは剣を手にドアへ向かう。
「マルティン、あなたは2班を集めて、西のひよこ豆畑を探して! それから、あなた――」
知らせに来た若者に指示する。
「今、非番なのは3班ね。すぐに召集して、村の東側を捜索してちょうだい!」
「わかった!」
若者は飛び出していく。
「メル、あんたはどうするんだ?」
尋ねるマルティンに、メルはきっぱりと答えた。
「南よ。街道沿いを探すわ」
何びとも、防衛隊の許可なくリサの村を出てはならない。
もちろん、危険だからだ。いつ、騎士隊に出くわすかわかったものではない。そして、騎士隊に捕まれば村へ戻れる保証はないのだ。
この命令は、毎日のように村民集会で繰り返され、それぞれの家庭でも親から子に徹底されている。
だが、子供というのは親の命令には逆らいたがるものだし、そういう時には独特の理屈をひねり出すものだ。
また、この命令は動物にまでは適用するわけにはいかない。もちろん、村人たちは飼っている家畜が逃げ出さないよう気を配ってはいるが、完全に目を行き届かせるというわけにはいかない。
そんなわけで、村はずれの放牧地で草を食んでいたヤギの群れから、一頭の子ヤギが蝶の群れを追って抜け出し、柵の隙間からさまよい出てしまったことには、誰の落ち度もない。また、それを目撃したふたりの子供が子ヤギを連れ戻そうと考えたのも、責められないことと言えた。
「あの子ヤギは村の大切な財産だよ。だから、群れに戻さなくちゃいけない。今、それができるのは僕たちだけだ。だから、やらなくちゃ」
理屈っぽいペーターの言葉に、熱血派のピエールがうなずいた。
「そうだな、俺たちも村の役に立てるってことを見せてやらなくちゃ。もしかしたら、メルにほめてもらえるかも知れないぞ!」
子ヤギはとことこと畑の間を抜け、丘を上り、再び下った。気ままに歩いているようだが、その歩みは速く、子供の足ではなかなか追いつけない。
「はあ、はあ、待ってよ、ピエール」
本を読むのが好きで運動には自信がないペーターは、だんだん遅れ始めていた。
「がんばれ、もう少しだ!」
後ろにいる友達に声をかけつつ、ピエールは先に立って進んだ。少し先の草原を駆ける子ヤギしか目に入っていない。
その子ヤギが、不意に足を止めた。顔を上げて空気の臭いをかぐと、来た道を駆け戻り始める。
「よし!」
ピエールは草むらに隠れ、近づいてくる子ヤギを待った。そして、タイミングよく飛び出し、抱きとめる。子ヤギがなぜ自分の方へ逃げ戻ってきたのかまでは考えが及ばない。
「捕まえた!」
歓声をあげ、追いついてきたペーターを得意げに振り返る。
「どうだい、やったぜ!」
だが、ペーターの視線は、ピエールの背後に向けられていた。怯えの表情が走る。
振り返ろうとしたピエールの顔が、頭上にかぶさる影でおおわれた。
日差しをさえぎる青い鎧。しかも、ひとつだけではない。
「ふふふ、捕まえた」
フィンデンの騎士は、野太い声でピエールの口調をまねた。
ピエールもペーターも、毎日母親からいやというほど聞かされてきた言葉を、真剣に思い出していた。
「いいかい、何があっても村から出るんじゃないよ。騎士に捕まったら、何をされるかわかったもんじゃないんだからね。とにかく、村の中にいる時でも、青い鎧を見かけたら、すぐに逃げるんだよ」
逃げたくても、足がすくんで動かない。既に4、5人の騎士に取り巻かれている。馬に乗ったのがふたり、徒歩の騎士が3人だ。斥候に出ていた騎士隊にぶつかってしまったのだ。もちろん、最近騎士隊に雇われたばかりのごろつきである。
「こいつは美味そうだな」
子ヤギの頭を剣の柄で一撃し、ぐったりした身体を抱え上げた騎士のひとりが言う。
「このガキどもは・・・どうする? 食っちまうか?」
別の騎士が言い、残忍そうな笑みを浮かべて子供たちを見た。ふたりとも、怯えて声も出せない。
「いや――。あの村の連中には手こずらされてるからな。やつらの目の前でいたぶってやるってのも面白いぜ」
「ああ、この剣の切れ味も、試してみてえしな」
舌なめずりするような表情を浮かべて、騎士たちは大口を開けて笑った。
「泣いたり騒がれると面倒だ。ふんじばってさっさと引き上げるぞ」
騎馬のひとりがあごをしゃくり、きびすを返そうとする。
「おっと、それくらいにしておきな!」
怒りを含んだ男の声が響く。
「誰でぃ!?」
騎士たちは一斉に振り向いた。鍛えられた騎士隊なら、全員が一箇所に注意を向けることなどありえなかったろう。
その隙を突いて、背後から飛んできたロープが、子供たちを捕まえていた騎士をぐるぐる巻きにする。
「何だ、こりゃあ!?」
さらに、草陰から突進してきた人影が、素早くペーターとピエールの襟を引っつかんで、騎士から離れたところへ放り出す。
「頼むよ、ヴィオラート!」
「はい!」
杖を構えた小柄な人影が、子供たちの前に立ちはだかる。
「ターフェルルンデ!」
子供を救出した冒険者は、徒歩の騎士には見向きもせず、抜き放った剣で近くの馬の足をないだ。
悲鳴をあげ、くずおれる馬から放り出されると、騎士は地面に叩きつけられてのびてしまう。
「すげえ・・・!」
ピエールが目を丸くした。
「こいつ!」
残りの騎士が剣を抜く間もあればこそ――。
「おっと、お前の相手はこっちだ!」
最初に声をかけた男が突進し、剣を叩きつける。
『生きてるナワ』で縛り上げられた(*5)男を含め、あっという間にフィンデン騎士団の斥候隊は、ひとりを残して戦闘能力を奪われていた。
「くそ、覚えていろ!」
最後に残った騎馬の騎士は、馬に鞭を当てて逃げ出す。
「待ちなさい!」
その時――。
馬を疾駆させ、ものすごい勢いで丘を下ってくる剣士がひとり。
逃げ道をふさがれたフィンデンの騎士は、馬を駆けさせたまま剣を抜いてそのまま突進する。
長い黒髪をなびかせた新来の剣士は、勢いのまま剣を一閃させた。青い重鎧に身を固めた騎士は宙に跳ね飛ばされ、くるくると舞って草むらに落ちる。
カタリーナが思わず賞賛の口笛を吹いた。
「その子たちから離れなさい!」
抜き身の剣をかざして片手で手綱を引き絞り、のけぞる馬を止めると、馬上から一喝する。何人でも相手にしてやろうという勢いだ。
「おっと、待ちなよ、メル」
明るい褐色の髪の男の声に、殺気立っていたメルがはっと見返す。
「コンラッド――!?」
コンラッドは軽くうなずき、剣を収めた。傍らのふたりの女性を見やる。
「このふたりも味方だ。カナーラント王国から来たヴィオラートとカタリーナ・・・」
そして、カタリーナとヴィオラートに、大剣を握りしめた女剣士を紹介する。
「こちらがメル。リサ防衛隊の指揮官――“リサの女神”だ」
夕焼けの茜色が、リサの家々と、周囲に広がる畑を染め上げている。
共同井戸の脇にしつらえられたかまどには大鍋がかけられ、リサ名産の野菜をたっぷりと入れたシチューがぐつぐつと煮え、美味しそうな香りを漂わせている。
遠来の客に、メルとマルティンが心づくしの夕食を用意しているのだ。
「わ〜い、にんじんだぁ!」
ヴィオラートはさっきから鍋のそばを離れない。大きなざるに山と盛られたにんじんを手にとっては香りとつやを確かめ、頬ずりしてはこっそりとかじったりしている。(*6)
「おっ、嬉しいねえ。あんた、このにんじんの良さがわかるのか。リサの野菜は世界一だからな」
刻んだ食材を鍋に入れながら、嬉しそうにマルティンが言う。
「う〜ん、でもカロッテ村のにんじんも美味しいよ」
「ははは、それはそうだろう。誰でも、生まれ育った土地で作られた食べ物がいちばん美味しいと感じるものさ」
「へえ、そうなんですか」
「考えてもみろよ。人間も野菜も、同じ水、同じ土、同じ空気で育っているんだぞ。それでまずく感じるわけがないじゃないか」
「なるほど・・・」
広場の方からは、子供たちの叫び声が聞こえてくる。ピエールにせがまれて、カタリーナが村の子供たちの剣の練習の相手をしているのだ。
かまどの反対側ではメルとコンラッドが情報交換を行っている。
「そうなの、ヘルミーナが――」
「ああ、今頃はメッテルブルグにもぐりこんでいるはずだ。うまくヴィトスを助け出せりゃ、この騒動の原因もわかるかも知れない。そうすりゃ、次の打つ手も見えるってもんだぜ」
「そうね・・・。錬金術の力で、なにかが変わるかも知れないわね」
メルは、緑色の錬金術服を着たヴィオラートを見やった。
「そして、あのふたりはこれからマッセンへ向かおうとしている。カタリーナにとっては生まれ故郷だし、ヴィオラートはマッセンに親父さんとお袋さんがいるらしい。フィンデン騎士団はマッセンへの侵攻準備を進めているらしいしな。ふたりきりで向かったところで、どこまでできるのかはわからんが――」
「でも、故郷やご両親を助けようという気持ちはわかるわ」
メルは口をつぐみ、目を伏せた。メルの過去を知っているコンラッドも黙り込む。
「ようし、食べ頃だ!」
マルティンの声に、カタリーナも練習を切り上げて戻ってくる。子供たちも一緒にやって来る。どうやらカタリーナはすっかりなつかれてしまったらしい。
「ねえ、この子たちも一緒に食べていいでしょ?」
「ああ、かまわんとも」
マルティンの言葉に、子供たちは歓声をあげてかまどの周囲に群がった。
「さあ、みんな、順番だぞ。おっと、お客さんが先だ」
「おお、リサのシチューを味わうのは久しぶりだな」
大皿に盛られた野菜たっぷりのシチューに、コンラッドが目を細める。
「おいし〜い! ああ、幸せ〜」
「ヴィオラートったら、にんじんしか食べてないじゃない」
「いいのいいの、このシチューさえあれば、にんじんがいくらでも食べられるわ」(*7)
「それって、にんじんをおかずににんじんを食べるってことじゃないの」
あきれるカタリーナの言葉も、至福の時を味わっているヴィオラートには届かない。
ゆっくりと食事を楽しむうちに、日はとっぷりと暮れていた。かまどの火が赤々と周囲を照らし出す他は、闇のとばりにおおわれている。
「はあ、美味しかった。ごちそうさま」
皿を置いたカタリーナに、ピエールが声をかける。
「お姉ちゃん、また剣の技を教えてよ!」
「え? またなの?」
「それは健康によくないね。食べてすぐに激しい運動をするのは、消化に悪いよ。少なくとも、一刻は待たなくては」
ペーターがしたり顔で言う。
「うるさいぞ、ペーター」
「ああ、ちょっと待って。ペーターくんの言うことは正しいわ。それに、もう暗いし」
「じゃあ、明日、頼むよ!」
「ごめんなさい、明日の朝には、出発しなきゃ」
「ええ〜!?」
子供たちの不満そうな声に、カタリーナはにっこり笑って言う。
「それじゃ、代わりにお姉ちゃんが歌を歌ってあげる。ね、いいでしょ?」
「うん・・・」
「じゃ、静かにして。お姉ちゃんの故郷の子守唄よ」
子供たちが静かになると、カタリーナは澄んだ声で静かに歌い始めた。
凍て〜つく〜、大〜地を〜、男は〜、たが〜やす〜
春〜の〜、日様〜を〜、また〜呼ぶ〜、ために〜(*8)
「あ、ぼく、この歌知ってるよ!」
男の子のひとりが叫んだ。
「うん、ぼくも知ってる! メルが教えてくれた!」
「え、そうなの?」
カタリーナはきょとんとして子供たちを見つめる。
メルも驚いているようだった。もの問いたげなメルの視線を受けて、カタリーナが説明する。
「この歌は、マッセンに古くから伝わる歌なの。冬が厳しいマッセンで働く農民たちの気持ちを歌ったものよ」
「そう・・・だったの・・・」
メルは遠くを見る目つきでつぶやいた。
「小さい頃、母さんがよく歌ってくれた。先祖代々、伝わる歌だって・・・。でも、大きくなって歌詞を思い返して、疑問に思ったの。リサは穏やかな気候だし、冬でも土地が凍てつくことなんかない。どこか、他の土地のことなんじゃないか――って」
かまどの炎が、メルの表情を照らし出す。しばらく黙り込んで追想にふけっていたメルが、再び口を開く。
「思い出した・・・。父さんが、一度だけ話してくれたことがあるの。父さんたちは、若い頃、気候の厳しい北の国から、新天地を求めてリサに移り住んで来たって。でも、それ以上詳しいことは話そうとしなかったし、わたしも聞かなかった。きっと、国に残してきた友達や親類のことを気にしていたのね・・・。カタリーナさんの話を聞いて、ようやくわかった。わたしの両親は、マッセン生まれだったんだわ・・・」
「それじゃ――」
ヴィオラートが叫んだ。
「エスメラルダさんもマッセンの人ってことですよね!」
身を乗り出し、熱のこもった口調で言う。
「一緒に、マッセンを助けに行きましょうよ!」
メルは黙って目を伏せた。
「おい、お前らはもう寝る時間だろう? さっさと家へ帰れ」
マルティンが子供たちを追いやった。火の周囲には、メル、マルティン、コンラッド、カタリーナ、ヴィオラートの5人が残る。
「ね! だって、エスメラルダさんみたいな強い人がついて来てくれれば心強いし」
「ヴィオラート、無理を言ってはだめよ」
勢い込むヴィオラートを、カタリーナがたしなめる。
「エスメラルダさんには、この村を守るという大切な役目があるんだから」
「でも・・・」
「さあ、明日は早いわ。もう宿へ戻って、休みましょう」
カタリーナは、不満げなヴィオラートをうながして立ち上がる。
メルが顔を上げた。
「あなたは――、わたしに来てくれとは言わないのね」
「あたしは、マッセンが故郷だから。故郷を守りたいから、行くのよ。でも、あなたが守るべき故郷は、このリサだと思う。あたしは、自分の心が感じるままに生きるの。だから、他人に意思を押し付けるのは嫌いだし、そうされるのもいやなのよ。それだけ」
「そう・・・」
「おやすみなさい。それから、美味しいシチューをごちそうさま」
カタリーナはヴィオラートを追って、宿屋の方へ去って行った。
「さて・・・。俺も寝るとするかな」
わざとらしく伸びをして、コンラッドも火のそばを離れる。
炎を見つめるメルと、マルティンだけが残った。
「メル・・・。本当に、いいのか?」
「・・・いいのよ」
「マッセンは、お前のご両親の故郷だってわかったんだ。お前がリサを一時的に離れたって、誰も文句は言わないぞ」
「わたしは、両親を亡くした時、誓ったの。このリサの村を守ってみせるって」
「おいおい、昼間に言ってたことと違うじゃないか。リサを守っているだけじゃだめだ、他の街のこともなんとかしなければと言ってたのは、何だったんだ」
「・・・・・・」
「お前に鍛えられたおかげで、村の若い連中も腕を上げてる。少しの間なら、リサは俺たちだけでも守ってやれる。お前の頼みなら、全員が喜んで従うぞ」
メルは不意に立ち上がった。
「お、おい・・・」
「素振りをしてくるわ。今日はまだしていなかったし」
そして、マルティンに見向きもせず、剣を取りに家へと入って行った。
マルティンは、首を振り振り、かまどを片付けにかかった。
「577・・・578・・・、579・・・」
冷たい空気に身をさらしながら、メルは剣を振り続けていた。
上段に振りかぶり、振り下ろすと、下からなぎ上げ、水平に振る。
心は27年前に戻り、リサを襲った魔物の群れと戦っていた。
「723・・・724・・・」
汗が額から頬を伝い、剣を振り下ろすたびに飛び散る。
魔物をようやく追い散らした後、たどりついた自分の家で、冷たくなっていた両親を見つけ、へたり込んだ自分の姿が見える。
「998・・・999、・・・1000」
一日分の素振りを済ませても、迷いは消えない。
メルは息つくこともなく、剣を振り続けた。
「1257・・・1258・・・」
先日みた悪夢の記憶がよみがえってくる。
あの見知らぬ街で、影のような魔物に追われて逃げまどっていた無数の人々。
あれは、過去の記憶の残滓だと思っていた。
だが、もしも未来の姿を垣間見たものだとしたら――?
「1589・・・1590・・・」
リサは自分の故郷だ。自分には、故郷を守る義務がある。
しかし、守るべき故郷は、ひとつだけなのか?
自分の手で守れるかも知れない故郷、自分でなければ守れない故郷が、他にもあるとしたら――?
「1823・・・1824・・・」
(あたしは、自分の心の感じるままに生きる――)
カタリーナ、あなたがうらやましい。
「2023・・・2024・・・」
(他人に意思を押し付けるのは嫌い――)
そう、わたしは自分の意思で行動する。過去の自分の意思で現在の自分を縛り付けるのはやめよう。
「2318・・・2319・・・」
(エスメラルダさんみたいな強い人がついて来てくれれば――)
まだ、間に合うかしら?
時刻は、深夜を回っていた。
物見やぐらで不寝番についていたマルティンは、誰かがはしごを上ってくるのに気付いて、ランプの灯を向けた。
「メル――! どうしたんだ?」
メルは晴れ晴れとした顔を向けた。
「マルティン・・・。お願いがあるんだけど」