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〜4周年&100000HIT達成謝恩企画〜

この青い空の下


第21章 貴方らしく私らしく(*1)

そこは、シグザール城でもごく限られた者しか足を踏み入れるのを許されていない一室だった。
王室騎士隊の精鋭が警護する謁見室の裏、厚いビロードの幕で存在を覆い隠された扉の奥、窓ひとつない廊下を曲がった先、重々しい樫造りの扉の中――。
さして広くない室内はランプであかあかと照らし出されているが、壁には絵画も装飾も見当たらず、実用一点張りという雰囲気だ。中央の丸テーブルを囲んで六脚の椅子が置かれ、そのうち五脚が埋まっている。
王室の中枢をなす重要人物が一同に会し、今しもシグザール王国最高会議が開かれようとしているのだ。
「ダグラスは、どうしたんだ。まだ来ないのかい?」
奥の壁を背にした金髪の青年が口を開く。シグザール王国第9代国王ブレドルフ・シグザールだ。王子時代に初めてこの最高会議に出席した時(*2)には、ただただ圧倒されて口をきくこともできなかったが、数年前に父ヴィントから王位を受け継いでからは(*3)、夢想癖や放浪癖も影を潜め、優れた為政者として手腕を発揮している。右隣の席からは、先王ヴィントが息子を頼もしそうに見やっている。ヴィントは、会議の議決権は持たないものの、相談役として最高会議に参加している。
「申し訳ありません。騎士隊長代行として出席するよう、きつく言い渡しておいたのですが・・・」
ヴィントの隣、ドアに近い側に座った騎士隊特別顧問ウルリッヒが立って頭を下げる。
「まだ、ダグラスには礼儀と自覚が足りないようです。剣の技術と熱意は十分なのですが、なかなか――」
「まあ、いいじゃないか。あいつも、いつまでもガキじゃないんだ。そのうち、自覚も出てくるさ」
くだけた口調で、王室秘密情報部長官ゲマイナーがなだめるように言う。他の面々がいずれも高雅な身なりをしているのに比べ、ゲマイナーはくすんだ色の地味な服で身を包んでいる。街へ出れば、たやすく民衆の中に飲み込まれてしまうだろう。目立った印象を残さず、常に陰に隠れて活動するのがゲマイナーの役回りである。本人はそのことをよく承知して、実践していた。
「ダグラスは、魔界での会見に同席していたわけですから、だいたいのことは承知しているでしょう。時間がありません。状況報告を始めましょう」
ゲマイナーは口調を改めて、会議進行の権限を持つブレドルフを見やる。
「いいだろう。――あなたも、よろしいですね?」
国王に視線を向けられて、イングリドは居心地の悪い思いをしながらうなずいた。
本来、王室最高会議は国王、騎士隊長、秘密情報部長官、特別顧問ウルリッヒの4名で構成され、先王ヴィントが加わっている。だが、議題によっては外部の人間を参加させることもある。今回は、当事者としてアカデミーからの錬金術士の出席が要請されていた。
(もう――! ドルニエ先生ったら、なんだかんだ理由をつけて、逃げてしまうんだから!)
心の中で毒づいたが、今回のような問題に関してはドルニエはお飾りに過ぎないことははっきりしている。本来、ここに座っているべきなのはヘルミーナなのだ。ヘルミーナが妖精のパウルに託して送って来た手紙の内容が、そもそもの発端だったのだから。
「では、状況確認をします。間違っているところがあったら指摘してください」
ゲマイナーがイングリドを見やり、淡々とした口調で話し始める。
「フィンデン王国の異変に関する最初の報告は、アカデミー卒業生で、グラムナート地方に滞在しているアイゼル・ワイマールからもたらされました。カナーラント王国とフィンデン王国との国境地帯で、フィンデン王国からの亡命者を救出したのです。亡命者のひとりはフィンデン王国の首都メッテルブルグの名家の人間で、われわれの情報網にも名前が知られている人物でした(*4)。彼女――女性ですが――の証言によると、平和だったフィンデン王国が突如として独裁国家に変貌し、恐怖政治を敷き始めたということです。騎士団を使って市民の財産を没収し、抵抗する市民を容赦なく弾圧しました。そして、周辺の小国を侵略する動きも見せているとのことです」
「まさに悪夢だな。国家としてあるまじきことだ」
ブレドルフが険しい口調で言う。ゲマイナーは国王をちらりと見て、続ける。
「ワイマール嬢からの手紙は、アカデミー経由で情報部へもたらされました。しかし、私が手を打つ前に、すでにアカデミーのヘルミーナ女史がグラムナートへ向け出発していました」
ゲマイナーに視線を向けられて、イングリドが身じろぎする。自分に責任を問われても困る、悪いのはヘルミーナだと言いたげな様子だ。
「ですが、この行動にはなんら責められるべき点はありません」
この言葉を聞いて、イングリドはほっと肩の力を抜いた。
「それとは別に、私は念のために、陛下の許可を得ていくつかの指令を出しました。これに関しては、後ほど触れることにします」(*5)
ブレドルフがうなずくのを待って、ゲマイナーは眼鏡の位置を整え、手元の紙に目を落とす。
「通常、平和な国家が突如として独裁国家に変わるということは、政変や革命を意味します。それを探ろうとしましたが、グラムナートはあまりにも遠く、私の配下の密偵を送り込むことはできませんでした(*6)。結局、ワイマール嬢かヘルミーナ女史からの続報を待つしかなかったのです」
眼鏡の奥からの鋭い視線で、再びイングリドを見る。
「そして、先日、ヘルミーナ女史からの報告がもたらされました。彼女がメッテルブルグに潜入して探り出したのは、由々しき事実でした。フィンデン王国の政変の原因は、どうやらフレイムと名乗る謎の騎士にあったようです。しかも、その仮面の騎士は目を見ただけで相手の精神を支配し、炎の魔法を操るなど、人間離れした能力を持っていました。現場で得られた証拠と証言から、ヘルミーナ女史は、仮面の騎士が魔界からやって来た可能性が高いと結論したのです」
「魔界か・・・。できれば関わりを持ちたくないのが正直なところだ」
ヴィントがつぶやいた。自分が在位中、『エアフォルクの塔』に巣食っていた魔人(*7)の噂で国中が恐怖に襲われたことを思い出していた。
「ですが、それがそこに存在している以上、見て見ぬ振りをすることはできません」
ウルリッヒが強い口調で言う。
「その通りだ」
ブレドルフがうなずく。ゲマイナーは変わらぬ口調で、
「そこで、新たな情報を求めるべく、危険を冒して魔界と接触することを決定しました。幸いなことに、数年前からわれわれは魔界とのコネクションを保っています」
「“紅薔薇の騎士”だね。ぼくも会ってみたいものだ」
ブレドルフは、若い頃に戻って夢見るような表情を浮かべた。
「残念ですが、それは諦めていただくしかありませんな」
そっけなく言って、ゲマイナーは話を戻す。
「ご承知の通り、魔界との接点は『エアフォルクの塔』にあります。使者の役は、知識と経験の豊富なイングリド女史にお願いし、助手の人選(*8)は女史に任せて、ダグラスを護衛に付けることとしました」
ウルリッヒとゲマイナーは、冒険者としても一流だった少女時代のイングリドを知っている(*9)。一緒に冒険をしたこともあるウルリッヒの親しみをこめた視線を受けて、イングリドはそ知らぬふりで天井を見上げた。それ以上余計なことを言わずにゲマイナーが本題に戻ったのでほっとする。
「“紅薔薇の騎士”ことキルエリッヒ・ファグナーとの会見は成功し、非常に興味深い事実が判明しました。――私が話し続けて構わないかね、イングリド?」
イングリドは気遣いに感謝してうなずき、先をうながした。
「キルエリッヒからの情報によれば、フィンデン王国に異変をもたらした元凶は、やはり魔界から侵入した精霊騎士と呼ばれる存在でした。かれらは魔界でも厄介者として通っており、破壊と混乱をもたらすことを最上の喜びとする連中のようです。もっとも、そういう性質は魔界では珍しいこともないようですが。しかも、ヘルミーナ女史がメッテルブルグで遭遇したフレイムという騎士の他、同様の能力と性質を持つ2名がグラムナートで暗躍しているのではいかと推測できます(*10)
「由々しき事態だな。他国のこととは言え、他人事ではない。そいつらを排除することはできないのか」
ブレドルフが強い口調で言う。ゲマイナーは首を振った。
「現状では、何とも申し上げられません。やつらは事実上、不死であるという証言もあります。魔界でも実力者のひとりであるキルエリッヒがそう言っている以上、信憑性は高いと思います」
「手の打ちようがないということか?」
ブレドルフは腕組みをして考えに沈んだ。ウルリッヒが口を開く。
「こちらから、フィンデン王国に対して援助を申し出ることはできます。しかし、フィンデンの王室自体が精霊騎士の手中に落ちているとすると、効果は期待できません」
「それよりも重要なことがあります」
ゲマイナーが引き取る。
「わが国も万一の場合に備えて、防備を固める必要があります。つまり――」

大きな音を立ててドアが乱暴に押し開けられ、ゲマイナーの言葉は中断された。
ダグラスを先頭に、青い鎧に身を固めた聖騎士が数人、飛び込んでくる。
「シグザール王室騎士隊、出撃準備完了だぜ! すぐに命令してくれ――じゃない、命令してください!」
ダグラスは室内の面々にもひるむことなく、敬礼して叫んだ。一応、丁寧な口調に言い直したが、いかにもわざとらしい。
ウルリッヒが立ち上がり、厳しい声で、
「ダグラス! 礼儀をわきまえろ! 王の面前だぞ。会議に遅刻した詫びもせず、その言い草は何だ! それに、貴様ら――」
ダグラスの背後に居並ぶ聖騎士たちをにらみつける。いずれもダグラスと同年代で、剣の技に優れ、将来の幹部候補生と目される分隊長たちだ。ダグラスと違い、緊張に顔をこわばらせている。
「ナイトハルト、アウグスト、エルンスト――!(*11) 貴様らにはこの会議室に入室する資格はないはずだ。即刻、退出せよ!」
「俺が呼んだんだよ!――じゃなくて、私が呼びました。こいつらに非はない!――です」
「普通に話せ、ダグラス。いちいち言い直されたのでは、わかりにくくて仕方がない」
ブレドルフが苦笑しながら言う。ゲマイナーは面白そうににやにやして見守っている。
「ありがてえ! 堅っ苦しい言葉は肩が凝ってしょうがねえや」
ダグラスは続ける。
「こいつらを連れて来たのは、これが騎士隊の総意だってことを言いたかったからだよ」
「だが、それならば先に申告して許可を求めるべきだ。騎士隊長代行とはいえ、規則を破っていいことにはならぬ」
「固いこと言わないでくれ。非常事態なんだぜ」
ウルリッヒの叱責にも、ダグラスはまったくこたえていないようだ。
「とにかく、騎士隊全員が賛成してくれたんだ。いつでも、フィンデン王国へ攻め込んで、魔界の騎士ってやつを退治しに行けるぜ。俺たちシグザール聖騎士隊が揃って乗り込めば、魔人だろうが何だろうが追い払ってやれるさ。罪もない市民が苦しんでるのを放ってはおけねえからな」
ダグラスは一気にまくし立てた。ウルリッヒが感情を押し殺した口調で言う。
「言いたいことは、それだけか?」
「これ以上、何があるってんだ? 後は行動あるのみだぜ! すぐに命令を下してくれ!」
「ばか者!」
ウルリッヒは一喝した。
「な――何だよ!?」
ダグラスが目をむく。一瞬、毒気を抜かれたようだ。
「貴様らには、政治が・・・、いや、外交というものが、まったくわかっておらぬ」
ウルリッヒは吐き捨てた。
「ど、どういうことだよ?」
「よく聞け。これはヴィラント山に魔物征伐に行くような単純なこととは違うのだ」
「そりゃあそうだ。何といっても遠くだし」
「そういう問題ではない!」
ウルリッヒはあきれたように言った。
「いいか、考えてみろ。ヴィラント山に魔物が出るからといって、他国の軍隊が許可もなく勝手にシグザールへ乗り込んできたら、どういうことになる?」
「そいつは・・・、ちょっと問題ありだな」
「ちょっとどころではない。ダグラス、貴様らが考えていることは、まさにそれだ。他国へ軍隊を派遣するのならば、その国の王室に申し出て、入国の許可を得ねばならぬ。これは、国際関係の基本だ」
「だけどよ、フィンデン王国は、その王室自体がおかしくなってるんだぜ。許可なんかもらえるわけねえじゃねえか」
「だからと言って、シグザールの騎士隊が勝手にフィンデン王国へ入り込んでみろ。明らかな国境侵犯だ」
「でも――」
「加えて、相手国の正規の騎士隊といざこざを起こしたら、どういうことになるか・・・。それは、内政干渉に他ならない。場合によっては、シグザール王国がフィンデン王国を侵略したと言われかねないのだぞ」
「そんなの、ただの理屈じゃねえか! 現に、あそこでは市民が大勢、苦しんでいるんだぜ。フィンデンの騎士隊は他の国に攻め込もうともしている。放っておいたら、いつかシグザールも狙われるかも知れないんだぞ!」
ダグラスが顔を真っ赤にして反論する。対照的に、ウルリッヒは穏やかで諭すような口調だ。
「将来、攻撃されるかも知れないという理由で先制攻撃をかけるなど、絶対に許されることではないのだ。たとえ相手が独裁国家であっても、国家主権は尊重されねばならぬ。このルールが踏みにじられては、国と国の平和などない」(*12)
ウルリッヒが言葉を切ると、会議室には重苦しい沈黙が垂れ込めた。
「じゃあ・・・、どうすればいいって言うんだよ!」
ダグラスは血を吐くような口調で、こぶしをテーブルに叩きつけた。
「モルゲン卿のおっしゃることが道理だ。ダグラス、自重してくれ」
ブレドルフが静かに言う。
ダグラスはうつむき、くちびるをかみしめている。他の聖騎士も同様だ。
それまで黙って成り行きを見守っていたゲマイナーが口を開いた。
「ダグラス――。お前は、ここしばらく休暇をとっていなかったな」
「はあ?」
秘密情報部長官ののんびりした口調に、ダグラスはあっけにとられて顔を上げた。ゲマイナーは続ける。
「他の連中もだ。前々から思っていたが、シグザールの騎士隊は働き過ぎでいかん。どうだ、第1分隊と第2分隊で、まとめて長期休暇でもとっては。観光旅行なんか、いいかも知れんな」
「な、何を言ってるんだよ、おっさん!?」
ダグラスは、ますます混乱したようだ。ゲマイナーの気が変になったのかと思っているのだろう。
ゲマイナーは、眼鏡の奥の目を光らせて、にやりと笑う。
「ちょっと遠いが、フィンデン王国は風光明媚なところだと聞いているぞ。みんなで旅行して、見聞を広めてきたらどうだ? まあ、休暇で旅行中の騎士隊員が旅先でいざこざを起こしたところで、国としては何の責任も取れないがな」
「ど――どういうことだよ?」
ダグラスはまだのみ込めないでいる。ウルリッヒが助け舟を出す。
「つまり、休暇中の騎士隊員が集団で何をしようが、シグザール王国としては一切関知しないということだ。管理不行き届きにはなるかも知れんが、それ以上の国際問題になることはあるまい。――わかったら、さっさと休暇の申請をして、フィンデンへでもどこへでも行って来い」
「なるほど! そういうことか!」
ようやく理解に到達したダグラスの顔がぱっと輝く。
「ありがてえ! 恩に着るぜ!」
抱きつかんばかりの勢いでゲマイナーに駆け寄り、肩をたたく。
「さすがだ、だてに年食っちゃいねえな、おっさん!」
そして、ブレドルフに向き直ると、直立不動の姿勢で、
「国王陛下! 王室騎士隊長代行ダグラス・マクレイン以下、第1分隊ならびに第2分隊、計12名、休暇を申請いたします! ご許可いただけますか!?」
「許可する」
にっこり笑って、ブレドルフがうなずく。ウルリッヒが傍らで言う。
「書類手続きの方は、私がまとめて処理しておきます」
「うむ、完璧を期しておいてくれ」
「では、結論をまとめます」
ゲマイナーがせき払いをして言う。
「議題1、フィンデン王国の異変に関して、シグザール王国は公式に、事態の進展を見守るにとどめる。議題2、王室騎士隊第1、第2分隊が申請した長期休暇を許可する。――これでよろしいですね」
「うむ」
ブレドルフがうなずく。
「では、以上を議事録に記し、王室最高会議は閉会とします」
ゲマイナーの言葉と共に、一気に室内の緊張がほぐれた。
「ダグラス、頼んだぞ」
ウルリッヒがダグラスの肩を叩く。
「任せといてください!」
ことの展開を見守っていたイングリドは、あっけにとられて口もきけなかった。
(なるほど・・・。これが本音と建前というものなのね。政治って、本当に面倒なものね)
アカデミーの運営に関しても、このような展開になることはある。だが、これほどまでに露骨にことが運ばれることはない。アカデミーではそこまでする必要はないのだ。錬金術士でよかった・・・とイングリドは思った。そして、アカデミーを建設する時に、このように政治的な面倒ごとを一手に引き受けてきたドルニエを、少し見直したのだった。
「ところで・・・」
ずっと沈黙を守っていたヴィントが口を開く。
「フィンデン王国へ向かうのはいいが、どうやって行くつもりかね。グラムナートは遠い。陸路を使っても海路を使っても、半年はかかると聞いている。間に合わないのではないかね」
「それは――」
ウルリッヒは絶句した。そこまでは考えが及んでいなかったのだろう。
ダグラスはもっと楽観的だった。イングリドを振り向き、
「そいつは俺も考えてなかったけどよ、きっと大丈夫さ。錬金術を使えば、ちょちょいのちょいで――」
「無理です」
イングリドはあっさりと首を振った。
「アカデミーに現存していた『空飛ぶじゅうたん』は、ヘルミーナが乗って行ってしまいました。新たに作るにしても、時間はかかりますし、少人数しか運ぶことはできません」
「冗談じゃねえぞ!」
ダグラスは怒鳴った。
「そんなばかな話があるか!? 行くのに半年もかかった日にゃあ、着いた頃にはフィンデン王国もマッセンも滅んでるかも知れねえぜ!」
荒れるダグラスを見やり、イングリドはゲマイナーに目配せする。ゲマイナーはうなずいた。
「たったひとつだけ、方法があります」
イングリドは言った。すぐにダグラスが食いつく。
「何だと!? あるのか!? どんな方法なんだ?」
「おそらく、その方法を使えば、数日でグラムナートへ到達することができるでしょう――」
「すげえ!」
ダグラスの歓声に、イングリドは冷水を浴びせかける。
「もし、命があったならばね」
「何・・・だと?」
ウルリッヒもブレドルフも、茫然とイングリドを見つめる。このことに関して、イングリドは事前にゲマイナーとだけ話し合っていたのだ。
ゲマイナーは重々しく言う。
「イングリドからこの方法を聞いた後、俺は何度も考えた。だが、間に合うようにフィンデンへ行くためには、この方法しかない。危険極まりないルートだがな・・・。行くか行かないか、それは自分で決めろ、ダグラス」
続くゲマイナーの言葉を聞いて、ダグラスは大きく目を見開き、叫んだ。
「何だって!? 正気か? ・・・だが、おもしれえ――」
不敵に、にやりと笑う。
「最高じゃねえか。魔界を通って観光旅行なんてよ」

執務室に戻ったゲマイナーは、書類で埋め尽くされた机に収まった。
ここにいる時がいちばん落ち着く。傍らに置いたバスケットからサンドイッチを取り出し、新たに届けられた書類に目を通しながら、ほおばる。仕事中でも片手で食べられるから便利だ。(*13)
「邪魔するよ」
ウルリッヒが入って来る。ゲマイナーの食べかけのサンドイッチを目にして、にやりと笑った。
「愛妻弁当か」(*14)
「ふん――、ほしけりゃ、勝手に食え」
「いや、遠慮しておくよ。ヘートヴィッヒ(*15)殿に恨まれてはかなわん」
「ほざけ」
ウルリッヒは正面の椅子に座った。
「しかし、卿もとんでもないことを考えるものだな。魔界を通ることで旅程を短縮するとは。あれには私も度肝を抜かれたよ」
「俺のアイディアじゃない。言い出したのはイングリドだ。魔界でキルエリッヒと話した時に、ヒントを得たんだとよ(*16)。確かに危険だが、収拾がつかなくなる前に騎士隊を送り込むには、これしかない」
「ああ。ただ、騎士隊二個分隊でも戦力が足りるかどうかだな。相手は何しろフィンデン騎士団全体だ」
「騎士隊全員を敵に回すわけじゃない。今回の場合、頭をつぶせば終わりだ」
「精霊騎士――か。だが、一筋縄ではいかない相手だろう」
「まあな。だが、向こうにはヘルミーナがいる。あいつは、悪魔のように頭が切れる女だ(*17)。イングリドが集めた情報があれば、なんとか手立てを考え付くだろう」
「確かに」
ウルリッヒはうなずいた。
「シグザール王国には多彩な人材がいる。人は国の大切な財産だ。わが国は恵まれているな」
「まったくだ。そう――、人材か・・・」
ゲマイナーは宙に目をやって考え込んだ。
「もうひとつ、手を打っておくか」
ウルリッヒが眉を上げる。ゲマイナーはにやりとした。
「あんたは、知らんでもいいことだ」
「そうか・・・。ところで、一時的に騎士隊が半減することになるが、そちらの方は大丈夫か? 盗賊征伐や魔物退治に、人手はいくらでも必要なのだ。他国を支援するために自国の守りが手薄になっては困る」
「問題ない。とっくの昔に王の親書を送ってある。後はシスカがうまくやってくれるさ」
「密偵を使ったのか?」
「いや、もっと信用できるやつに頼んだ。昔のお仲間にな」
「なるほど」
ウルリッヒは席を立つ。ドアから出ようとして、ゲマイナーを振り向いた。
「私たちは、待つしかないのだな」
「ああ。連中はきっとやってくれるさ」
「それから、彼も――」
「たぶんな。あいつは間違いなく、グラムナートにいる」
「ダグラスには、言っておかなくていいのか?」
「かまわん。余計なことは考えさせない方がいい」
「承知した」
ウルリッヒは静かにドアを閉めて、出て行った。
「さてと――」
ゲマイナーの休むことを知らぬ頭脳は、すぐに次の打つ手を練り始めた。


「やあ、エリー。どうしたんだい? なんか、元気がなさそうだけど」
講義を終えて教室を出たエリーは、同じように別の教室から出てきた男性に声をかけられた。褐色の髪に褐色の瞳、分厚い書物を抱えて、白い錬金術服を着込んでいる。
「あ、ノルディス」
ノルディス・フーバーはアカデミー在学中はエリーと同じイングリド教室に属していた。補欠ぎりぎりで入学したエリーと違って、ノルディスはトップの成績でアカデミーに合格し、以降もトップクラスの成績を保ち続けた。マイスターランクを卒業後も研究員としてアカデミーに残り、今は主に医薬品の研究に取り組んでいる(*18)
「そうだ、サライたちは、昨日の馬車で南の国へ帰って行ったよ。帰る前にもう一度、エリーに会いたがっていたけど」
「そう・・・。ごめんね、全部ノルディスに押し付けちゃって」
南の国のアカデミーから訪れたサライ・マーヤと一緒に過ごしたかったのだが、エリーはイングリドの助手として『エアフォルクの塔』へ赴かねばならなかったため、サライたちの世話役をノルディスに任せなければならなかったのだ。
「それより、大丈夫かい? 顔色がよくないみたいだけど。疲れてるんじゃないのかい」
ノルディスは気遣わしげにエリーを見やった。
「うん、大丈夫だよ」
エリーはわざと元気な声を出した。
もちろん、大丈夫なわけはない。『エアフォルクの塔』で聞かされた話の重大さに、エリーは圧倒されていた。おかげで講義もおざなりで、生徒たちにも心配されるほどだったのだ。だが、イングリドからは口外しないよう強く念を押されている。
しかし、戦乱のグラムナートにはアイゼルがいるのだ。
ノルディスとアイゼルが将来を誓い合っているのは、エリーもよく知っている。アイゼルが旅立った理由もまた――。(*19)
「ねえ、ノルディス」
「ん?」
「アイゼルから、便りは来る?」
「いきなりどうしたんだい?」
ノルディスは首をかしげる。
「うん、あんまり来ないな。でも、便りがないのはいい便りだって言うしね」
「寂しくないの?」
「時にはね。でも――」
窓辺に寄ったノルディスは、どこまでも広がる空を見上げた。この空は、グラムナートにもつながっている。
「アイゼルがどんな気持ちで旅立ったのか、ぼくは知っている。ぼくの心の中には、いつでもアイゼルがいるんだ。ぼくたちは、心と心でつながっているんだから・・・」(*20)
そのアイゼルは、今、グラムナートで危険な目に遭っているかも知れない。イングリドにお仕置きをされようと、構うものか。
(黙ってることなんて、できないよ!)
エリーは真剣な目でノルディスに向き直った。
「聞いて、ノルディス――!」


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