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〜4周年&100000HIT達成謝恩企画〜

この青い空の下


第25章 大切な人のために(*1)

「よっしゃ、みんな集まったな。準備はいいか?」
「はい!」
ダグラスの声に、思い思いの格好をした若者たちが、一斉に応える。全員の所作に緊張感がみなぎっている。
「おいおい、そうしゃちほこばるなよ。俺たちは休みを取ってのんびり骨休めに行くところなんだぜ。非番の時は、隊長代行も何もねえ。もっと肩の力を抜かねえと、フィンデンまで身がもたねえぞ」
ダグラスは振り返ってにやりと笑った。
シグザール王室騎士隊の第1分隊と第2分隊の面々は、『エアフォルクの塔』を囲む森の中の広場に集まっていた。これからグラムナートへ乗り込んで、精霊騎士を退治するのに一役買おうというのだ。
長期休暇を取って旅行に出かけるという建前のため、蒼い聖騎士の鎧は着られない。みな、皮鎧に皮の手甲やブーツという、典型的な冒険者のいでたちをしている。腰に差した剣も、見栄えのしない薄汚れた皮の鞘に収まっているが、これだけは正真正銘の聖騎士の剣だ。
「どう? 全員揃ったかしら?」
塔から現れたイングリドが尋ねる。イングリドの背後、塔の内側の暗がりには腰にレイピアを差した赤い髪の細身の女騎士がたたずみ、騎士隊に鋭い視線を向けている。“紅薔薇の騎士”ことキルエリッヒ・ファグナーだ。
シグザール王室最高会議から、4日あまりが経っていた。
あの後すぐに、イングリドはヘルミーナへ状況を知らせる長い手紙を書き、妖精のパウルに持たせてグラムナートへ送り返した。そして、再び『エアフォルクの塔』へ赴いてキルエリッヒを説得し、ダグラス以下の騎士隊員が魔界を通り抜けてグラムナートへ向かうことを承知させたのだった。
「おう! 準備完了だぜ! ――うん?」
振り返ったダグラスが、目をむく。
「おい! なんでお前らがここにいるんだよ!?」
イングリドに続いて、塔からふたりの小柄な人影が現れたからだ。錬金術服とローブをまとったふたりは、エリーとノルディスだった。
「わたくしが呼んだのです」
イングリドが答える。エリーもノルディスも真剣な表情で、口元を引き締めている。
「どういうこったい? 俺たちはできる限り極秘に行動しなけりゃならないんだぜ。このことを知ってるやつは、少なけりゃ少ないほどいいんだ。それとも、まさか――俺たちと一緒に行きたいなんて言い出すんじゃねえだろうな!?」
「ううん、違うよ、ダグラス」
エリーが首を横に振る。
「あたしだって、事情を知ってしまった以上、アイゼルを手助けに行きたいよ。でも・・・」
「僕も、気持ちは同じです。エリーから聞いて――」
ノルディスは目を伏せた。
「アイゼルが危険な目に遭っているかも知れないのに、放っておくことななんてできない。けれど、僕たちはこちら側で必要なのだと、イングリド先生から聞かされて・・・」
「どういうことだ?」
ダグラスの問いに、イングリドが答える。
「魔力の強い錬金術士が、何人か必要だというのよ。あなた方に、無事に魔界を通り抜けさせるためにね」
「何だと?」
「それについては、わたしから説明しよう」
キルエリッヒが進み出た。
「正直言えば、大勢の人間を魔界に入れることなど、したくはないのだ。異界の存在が入り込めば、魔界の住人も騒ぎ出す。余計な騒動を起こすだけだからな」
「けっ、それはそっち側の勝手な都合だろうが」
「ダグラスったら!」
かみつくダグラスに、エリーが心配そうな目を向ける。ここでキルエリッヒといさかいを起こしたりしたら、何もかも台無しになりかねない。だが、キルエリッヒは涼しい顔で、
「そればかりではない。因果律の歪みも重大だ。――だが、あの厄介者の精霊騎士三兄弟を痛い目に遭わせるためとあれば、協力するのにやぶさかではない」
口元にぞっとするような笑みを浮かべる。
「だから、できる限り魔界に影響を与えぬよう通行させることにした。遮蔽の結界を張って、その内部を通ってもらう」
「遮蔽の結界? 何だ、そりゃ」
「お前たちが理解する必要はない」
「わかったよ、とにかく、その結界とやらの中を通れば、余計なごたごたを起こさずに魔界を通れるってわけなんだな。上等じゃねえか。俺たちも、無傷でグラムナートへたどり着きたいからな」
イングリドが引き取って言葉を継ぐ。
「その遮蔽の結界をずっと張り巡らせ続けるために、わたくしたち錬金術士の力が必要なのだそうです。ですから――」
「わかったよ。そのために、あんたやエリーやノル公がここにいるってわけだな」
「その通りだ」
キルエリッヒがうなずき、イングリドらを見やる。
「かれらには、塔の最上階で待機してもらうことになる。お前たちが魔界を通り抜けるまでの数日間――。そして、結界が消滅し魔界が安定を取り戻すまで、しばらくの間、魔力を持つ者の手助けが必要だ」
「ああ、わかった。よろしく頼むぜ」
ダグラスがうなずく。エリーとノルディスはダグラスに歩み寄る。
「ダグラス――。アイゼルをお願い」
「僕からもお願いします。それと、これを――」
ノルディスは、手紙を取り出してダグラスに渡す。
「何だ、こりゃ?」
ダグラスは目の前で手紙をひらひらと振ってみせる。ノルディスは所在なげに目を伏せた。エリーがとがめるようにダグラスをにらむ。
「ああ、わかってるよ、アイゼルに渡しゃいいんだろ、このラブレターをよ」
「な――!」
ノルディスは首筋まで真っ赤に染まる。
ダグラスはふところに手紙を収めると、騎士隊員を振り返った。
「よし、みんな行くぞ!」
「おう!」
騎士隊が呼応する。
その時、木々の間から声がかかった。
「おっと、ちょっと待ってくれ」

「何? 誰だ!?」
ダグラスが怒鳴る。他の騎士隊員も身構えた。
「俺たちも、連れてってくれよ」
「あたしたちも〜」
森から、わらわらと冒険者姿の男女が現れる。その後ろから、荷馬車までが姿を現した。
「お、お前ら――」
ダグラスが口をあんぐりと開ける。
最初に声をかけてきた冒険者――大きなバンダナを額に巻き、緑色のマントをまとったルーウェン・フィルニールが口を開く。
「あんたたち、骨休めに遠くの国へ旅行に行くんだってな。俺もちょいと田舎暮らしに飽きたところだし、どこか遠出をしたかったところなんだ。いいだろう? 連れてってくれよ」
「グラムナートってところへ行くんでしょ? きっと、食べたこともない美味しいものがあるよね〜」
浅黒い肌に短い銀髪、白い皮鎧を着て、のんびりした口調で言うのはミュー・セクスタンスだ。
「フ・・・。カリエルやドムハイトには行ったが、大陸の東には行く機会がなかった。シグザールにいると、昔のしがらみがうっとうしいしな。ちょうどよい」(*2)
灰色のターバンを巻き、不気味な雰囲気のシュワルベ・ザッツも剣を手に藪陰にたたずんでいる。
「最近、運動不足だからね。ちょっと遠出をしたかったところなんだ」
身軽に枝から飛び降りてきたナタリエ・コーデリアが笑みを浮かべる。
「わたしたちは、皆さんの前途を守ってくださるよう、アルテナ様の祝福をお祈りしに参りました」
「ま、そういうことよ。あたしも行きたいけど、もう歳だしね」
修道服姿で荷馬車から降りてきたのは、フローベル教会のシスター、ミルカッセ・フローベルとエルザ・ヘッセン(*3)だ。
「あたしたちも、黙っちゃいられなくてね。差し入れに、魔物に強い銀製の武器を持って来たよ」
「おぅ、俺っちも行きてえけどよ、店をほっぽり出すわけにはいかねえからな! とりあえず、見送りに来たぜ」
つるつる頭を光らせた武器屋の親父と、ファブリック製鉄工房の跡取りだったカリン(*4)が、馬車から剣やナイフ、槍などを下ろす。
「おい! どうなってるんだ、こりゃあ!?」
誰に言うともなく、ダグラスは声を張り上げた。
「なんで、こいつらが知ってるんだ? シグザールの機密保持はどうなってるんだよ!? ――おい、お前ら!」
騎士隊員を振り返る。
「誰か、酒場へでも行って、ぺらぺらしゃべったんじゃねえだろうな!」
「おいおい、ダグラス、俺たちは何も言っちゃいないぜ。信用してくれ」
第2分隊長のアウグストが騎士隊を代表して言う。
「じゃあ、どうしてだ!?」
ダグラスににらまれ、エリーはあわてて首を振った。
「あ、あたしはノルディスにしか話してないよ!」
「安心してくれ。ここに来てる連中以外は、誰も知らないよ。ああ、後は『飛翔亭』のクーゲルの旦那だけだな」
ルーウェンがダグラスの肩を叩き、笑いながら言う。
「俺たちはみんな、クーゲルの旦那から話を聞いて来たんだよ」
「何だと?」
「王室上層部の、さる重要人物からの極秘情報だって言ってたな」
ダグラスは大きく目を見開いた。いからせていた肩が、がくりと落ちる。脳裏に、秘密情報部長官ゲマイナーのにやにや笑いが浮かんだ。
「あ――、あの、タヌキ親父!!」(*5)
歯軋りし、地団太を踏まんばかりのダグラスに、ルーウェンは顔を近づけ、ささやきかけた。
「俺たちなら、騎士隊と違って、どこへ行って何をやらかしても、国がおとがめを受けることはない。それに、いい加減な気分で行きたがってるわけでもない。――いいか、俺たちもみんな、あんたらと気持ちは一緒なんだよ」
一瞬、言葉を切り、ルーウェンは強い口調で続ける。
「今、グラムナートでは、国を巻き込んでの戦乱が起ころうとしてるんだろ? もし、そんなことになったら、いちばんつらい思いをするのは、身を守るすべも持たない普通の人たちだ。住む家や村を失い、親と離れ離れになる子供もいるだろう。そんな子供たちが、どんなに寂しく、苦しい毎日を送ることになるか――」
「ルーウェン・・・」
かつてルーウェンの故郷の村がシグザールとドムハイトの戦乱に巻き込まれ、幼かったルーウェンが両親とはぐれて、大変な苦労をしたことはダグラスも知っていた。10年以上も探し続けた末、幸いにも両親にめぐり会えて、今は再建された村で暮らしていたはずだ。
「グラムナートの子供たちに、そんな思いをさせちゃいけない。戦争に泣く子供を、これ以上増やすわけにはいかないんだ。――あんな思いをする子供は、俺で最後にしたいんだよ!」
「ああ・・・、よくわかったぜ」
ダグラスは、ルーウェンの肩に両手を置いた。そして、背後に思い思いの格好で控える冒険者たちを見やる。
「正直、戦力はあればあるほどありがてえ。――みんな、恩に着るぜ!」
冒険者たちはうなずく。
「俺は、腕試しをしたいだけだ。気にするな」
シュワルベが無表情に言う。
「あたしは、アイゼルに借りがあるからね」(*6)
ナタリエは肩をすくめる。
「うん、戦争になったら美味しいものが食べられなくなっちゃうから、困るよね〜」
ミューはどこまで本気なのか、よくわからない。

そして、塔の前の広場では、あらためてあわただしく出発準備が繰り広げられた。
ミルカッセとエルザが手分けをして、騎士隊や冒険者たちに薬や護符を渡し、女神アルテナの祝福を授ける。カリンと武器屋の親父が運んで来た武器の中から、各人が好きなものを選ぶ。聖騎士の剣一本しか携えていなかった騎士隊員たちは、補助的に使える短剣やレイピアをありがたく受け取った。
その傍らでは、イングリドが不安げにキルエリッヒに話しかけている。
「人数が増えてしまいましたけれど、大丈夫ですか?」
「ふん、大したことはない。いったん結界を張ってしまえば、10人でも20人でも同じことだ。とにかく、魔界の住人になるべく気取られぬように『マイバウムの塔』まで送り届ける。それがわたしの役目だ」
「よろしくお願いします」
「本当は、お前も共に行きたいのではないのか」
キルエリッヒが笑みを浮かべる。イングリドはせき払いをして、
「わたくしは、自分の役目を果たすだけです」
「ふふふ、そうか・・・。では、行くぞ」
キルエリッヒはマントをひるがえし、塔の中へ消える。
イングリドが続き、エリーとノルディス、ダグラスを先頭とした騎士隊員が整然と乗り込んでいく。
最後に塔に消えようとする冒険者たちに、武器屋の親父が叫んだ。
「わかってるだろうな! 俺が頼んだ物を、忘れんじゃねえぞ!」
ナタリエが手を振って、大声で応える。
「わかってるよ! よく効く毛生え薬を見つけて来りゃいいんだろ!」
「ば、ばっか野郎! でかい声で言うんじゃねえ!」


マッセンの秋は深まっていた。
既に、北の方の村では小雪がちらついているともいう。だが、そのような知らせも、今年は伝わって来るのが遅かった。
街道のあちこちに強い魔物が出没するため、村から村へと旅する商人や吟遊詩人の足が遠のいているのだ。首都マッセンハイムに戻って来た“マッセンの騎士”が魔物の群れを次々と改心させているというが、まだまだ人を襲う魔物も多い。
ここ、マッセン南部の小さな村も、訪れる旅人は少なく、村人たちはひっそりと毎日を過ごしていた。昼間は魔物の襲来を恐れながら畑や森で働き、今日も無事だったことを感謝しつつ、村へ帰る。
村人たちの唯一の楽しみは、日暮れ時に酒場へ集まって、自家製のエールを酌み交わしながらおしゃべりに興じることだった。
今宵も、狭い酒場の中央に置かれたストーブを囲んで、村の男たちが声高に噂話に花を咲かせていた。
「ああ、今日も無事に終わったな。やれやれだ」
「まったくだ。マッセンハイムの守護神様に感謝しなけりゃな」
「そういえば、“マッセンの騎士”様は、今も国中を回ってらっしゃるのかい?」
「さあな、わかるわけがないだろう?」
「また、この村にいらしてくれないものかなあ」
「そうだな。あの時は、近くにうろついていた魔物を追い払ってくださったが、また最近は魔物の数が増えているしな」
「魔物って言やあ、聞いたか?」
ひとりが声をひそめる。
「何だよ、もったいぶるねえ」
「もったいぶっちゃいねえよ。隣村のハンスのところのガキの話さ」
「いや、そいつは初耳だな。何があったんだ」
「それが、ぶったまげる話さ。あそこのガキはいたずら盛りだろ? 魔物がいるといけねえってんで、ハンスも口をすっぱくして外へ出ねえように言ってたらしいんだが、言うことを聞くわけがねえ。ひとりで山へ遊びに行ったらしいんだ」
「ふん、それで――?」
「それで、でかくておっかねえ悪魔みてえな魔物に出っくわしたと思いねえ」(*7)
「ひええ、そいつは剣呑だな」
「ハンスのとこのガキも、しょんべんちびって立ち往生よ。ところが、そこへ突然現れたひとりの騎士が――」
「何だって?」
「問答無用と魔物をばっさり・・・。ハンスのやつが駆けつけた時は、まっぷたつにされた魔物の死骸が転がってるだけだったとよ」
「そいつは・・・、“マッセンの騎士”様じゃないのかい」
「いや、どうも違うらしい。身体は大きくて、髪も長かったらしいが、仮面はかぶってらっしゃらなかった。ハンスのとこのガキも動転してて、それ以上は覚えてねえそうだがな」
「その騎士様は、なんかおっしゃったのかい?」
「いや、黙りこくったまんま、すぐに行っちまいなさったそうだ。だが、一撃で魔物の息の根を止めるくらいだ。さぞかし名のある騎士様にちげえねえ」
「へええ、そいつはありがてえこったな」
「おう、そういや、似た話を俺も聞いたことがあるぞ」
「何だと、ほんとかい」
「ああ、先だって、畑の草むしりをしてた時に通りかかった商人から聞いた話さ。何でも、北の方の村でも、疾風のように現れて、村人や旅人を襲う魔物をばっさばっさと叩っ切っては疾風のように去って行く、凄腕の騎士様が現れたって噂だ。どこから来なすって、どこへ行くのかは誰も知らねえらしいがな」
「ふうん」
男たちが際限なく続けるおしゃべりに、壁際のカウンターの奥の席からじっと耳を傾けているひとりの男がいた。酒場の最も奥まった場所で、たるや戸棚に囲まれ、薄暗がりになっているので、男の姿は村人たちには見えない。たくましい大きな身体を縮めるようにしてカウンターに両肘をつき、黙々とグラスの酒をすすっている。長い黒髪に隠され、横顔すらうかがい知ることはできない。肌身離さず持っている長剣も、マントの陰に隠している。
男がそこにいるのを知っているのは、酒場の亭主だけだ。最初はよそ者と見て怪しんでいたが、じっと隅に座っているだけでもめごとを起こす様子もなく、金払いもいいため、亭主も黙って放っておくことにしたようだった。男にとっても、その方が都合が良い。
「そういやあ、あの話は聞いたか?」
村人たちの話題が変わった。
「マッセンハイムの守護神様を奪おうと、狙ってるやつがいるってよ」
「何だって!? そいつはおおごとじゃねえか」
「ああ、南から来た吟遊詩人の若いのが、言いふらしてたらしい」
「おいおい、信用できるのかよ、そいつは」
「本当か嘘かは、俺にもわからねえよ。でも、その守護神様を狙ってる相手ってのは、この世の中とは違う、魔界とかいうところからやって来るそうだ」
「魔界っつったら、魔物がぎょうさん住んでるっていう、おっかねえところじゃねえか」
「ああ、しかも、そいつは魔界の女王で“紅薔薇の騎士”って呼ばれているらしい」
カウンターの隅で、話に耳を傾けていた男の背中がぴくりと震えた。そ知らぬふりでグラスを傾けているが、これまで以上に神経を集中して、耳をそばだたせている。
「“紅薔薇の騎士”かよ。なんだか、めんこいような、おっかねえような、面妖な名前だなや」
「だけんどよ、マッセンハイムにゃ“マッセンの騎士”様がいらっしゃるんだ。そう簡単に守護神様を持って行かれてたまるかってんだ」
「そうともよ」
「おっと、安心するのはまだ早えぞ。聞くところじゃ、その“紅薔薇の騎士”ってやつは、以前に“マッセンの騎士”様を打ち負かしたことがあるそうな――」
「そんだらこと、信じられっか。“マッセンの騎士”様は、無敵の勇者様だぞ」
「だからよ、俺は聞いた話をしゃべってるだけだってば」
「いい加減な噂ばらまいてっと、守護神様の罰が当たっぞ」
「ああ、わかったよ、だけど、噂にゃまだ続きがあるんだ。最後にそれだけ言わせてくんな」
「好きにしろい。言い終わったら、後は口つぐんでるだぞ」
「それでな、その“紅薔薇の騎士”とやらがマッセンハイムに現れる日ってのも、決まってるらしいんだ」
「どういうこったい、そりゃあ?」
「わからねえけどよ、吟遊詩人が言うにゃ、その“紅薔薇の騎士”がマッセンハイムに現れるのは、次の竜の月、竜の日、竜の刻(*8)だとさ」
「あん、竜の月だぁ? もうすぐじゃねえか」
「まあ、どっちにしろ、俺たちにゃどうにもしようがねえ」
「マッセンハイムへ見物に行こうにも、街道にゃ魔物がいっぺえいるって言うしな」
「ああ、触らぬ神に祟りなしよ」
「んだ、んだ」
「そりゃあそうと、おめえんとこの爺さまの腰がまた悪くなったってのは本当か?」
村人たちの話題は、罪のない世間話に戻って行った。
カウンターの隅では、男が黙って思いにふける。
(“彼女”が来るというのか・・・。だが、いささか腑に落ちぬ・・・)
グラスをゆっくりと口に運ぶ。
(それに、あの時、私が助けた少女は間違いなく錬金術士だった・・・。そちらの動きも気になる・・・。ふむ、噂は南から来たのか・・・。これは、もしかすると――)
村人たちが家に帰って行き、亭主が看板だと言いに来るまで、男は微動だにせず思いに沈んでいた。
銀貨を多めにカウンターに置き、男はうっそりと立ち上がる。このマッセンへ足を踏み入れて以来、何十匹という魔物の血を吸ってきた剣を引き寄せ、店を出る。酒場を後にした男は、星降る夜空を見上げてかすかに不敵な笑みを浮かべた。
(竜の月、竜の日、竜の刻――か。どうやら、時が満ちてきたようだな。その時、マッセンハイムに現れるのは、鬼か蛇か・・・。フ、面白い・・・)


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