第27章 はるかな刻の彼方でも(*1)
「何だって!? 200年前のライフ村へ行って、ユーディットを連れて来る――!?」
クリスタの声が裏返った。
「ふふふふふ、その通りさ」
すっかり落ち着きを取り戻したヘルミーナが、腕組みをしたまま笑みを浮かべる。
「“六芒星封魔陣”を発動させるには、錬金術士が6人必要だ。けれど、今ここには錬金術士は5人しかいない。ザールブルグは遠すぎて、今から連絡して呼び寄せたのでは間に合わない。グラムナートとシグザールを隔てる空間は、大きすぎるからね。でも――」
ヘルミーナは、ユーディットの魔法書を指し示した。
「『竜の砂時計』をうまく使えば、かつてのユーディットと同じように200年前のライフ村に行くことができるはずさ。ちょいとユーディットを引っ張ってきて、6人目の錬金術士になってもらえばいい。そうすれば、“六芒星封魔陣”も発動できるというわけさ。ふふふ」
ライフ村とは、ユーディットの故郷の村の名前だ。かつてアルテノルトとヴェルンの中間あたりにあったらしいが、今では跡形もなく失われてしまっている。ユーディットは『竜の砂時計』の調合中の事故が原因で時間を越え、200年後のフィンデン王国に飛ばされてしまったのだった。それが、こちらの暦で20数年前のことだ。そして、フィンデン王国で数年間を過ごした後、元の時代へ戻る手段である『竜の砂時計』を完成させた。ユーディットは友人たちに別れを告げ、過去へと帰って行ったのだ。
「だが、『竜の砂時計』を使うのはいいとして、正確に200年前のライフ村へたどり着くことができるのかな?」
オヴァールが首をかしげた。
「どうやって、時間の流れの中で200年前に狙いをつけるつもりなんだ?」
「ふふふふ、そこはちゃんと考えたよ。今、協力者をアイゼルが呼びに行っている」
「協力者? 誰のことだい?」
クリスタはオヴァールと顔を見合わせる。
その時、扉がノックされ、ラステルとヴィトスが入って来た。ふたりを連れて来たアイゼルが静かに扉を閉める。
ヘルミーナの話を聞くと、ラステルもヴィトスも茫然と目を見はった。
「ああ、本当なの? 本当に、もう一度ユーディーに会えるの?」
ラステルは両手を組み、夢見るような表情でつぶやく。ヴィトスは疑い深げに首をかしげ、
「もし、それが本当ならすごいことだが・・・。僕がどのように協力できるというんだ? そこがよくわからないな」
「今から説明するよ、ふふふ」
ヘルミーナは、自分の世界に入り込んでしまっているラステルをつつき、
「あれは、持ってきてくれただろうね」
「あ、ええ、もちろんよ。どこへ行くにも肌身離さず持ち歩いているもの」
われに返ったラステルが、球形をした金属の枠を取り出す。(*2)
「それは・・・」
クリスタが見つめる。遠くを見るような目で、ラステルが答える。
「そう・・・。あの時、ユーディーが使った『竜の砂時計』の外枠よ。ユーディーが遺してくれた、たったひとつの物――」
「そうか、あの時の・・・」
オヴァールの脳裏に、20年前の出来事が浮かんだ。あまりにも強烈な印象を残したため、今でもありありと思い浮かべることができる。
そこは、ヴェルンの街の東に広がる森の中にひっそりとたたずむ古代遺跡だった。いつの時代のものとも知れない魔法陣のようなストーンサークル。それを囲うように、細い石の柱が何本も立っている。材質はアルテノルトの氷室を作り上げている石と同じもののようだが、詳しいことはわからない。
当時のヴェルン図書館長ポスト・コールシュタットの意見では、この場所には時空を越えるための魔力が集中する焦点となっているのではないかということだった。そしてユーディットは200年前の時代に帰るために、この場所で『竜の砂時計』を使うことにしたのだ。
静かな夜だった。
見送りに集まった友人たち(*3)と別れを惜しんだ後、ユーディットはストーンサークルの中央に立ち、右手に持った『竜の砂時計』を高く掲げる。左手に持った杖にはオウムのフィンクがおとなしく止まっている。いつも騒がしいフィンクも、この時ばかりは沈黙していた。
『竜の砂時計』の内部の砂が、光を発する。同時に、石柱から一斉に光が放射され、魔法陣の上の空間をおおう。光は柱のようにユーディーを包み込んだ。まばゆい光の筒の内部で、目を閉じたユーディットの身体が重さをなくしたようにゆらゆらと宙に浮く。
光は脈打ち、渦巻き、徐々に強まっていく。
一瞬、ユーディットは目を開き、ラステルを見た。
「ありがとう・・・。さようなら・・・」
つぶやきと共に、『竜の砂時計』がひときわまばゆい輝きを放った。光の柱が天に向かって伸び、音もなく炸裂した。
まぶしさに、皆が目をおおう。
再び目を開いた時には、光もユーディットの姿も消え去っていた。
ただ、中身をなくした『竜の砂時計』の外枠だけが、乾いた音をたてて冷たい石の上に転がり落ちた。そこにユーディットがいたということを示す、ただひとつの痕跡だった。
今、ラステルが差し出しているのは、その時の『竜の砂時計』の外枠に他ならない。
受け取ったヘルミーナは、楽しそうに金属の枠をもてあそんだ。
「ふふふふ、これがあたしたちをユーディットのところへ導いてくれる鍵になるのよ」
「どういうことだい?」
「この枠を使って『竜の砂時計』を作るのさ。もともと、この枠はユーディットが作ったものだし、それに加えてこの20年間のラステルの想いがこめられている。その想いの強さがあれば、必ずユーディットのところへ行けると思うよ、ふふふ」
「なるほど、心の絆をよりどころにするわけか。確かに、あの秘法を封じていた箱の合言葉を考えれば、ユーディットもラステルのことを気にかけていたようだしね」
クリスタはうなずいた。ヴィトスはまだいぶかしげな表情を浮かべている。
「それはわかるが、僕の役割は何なんだ?」
「あんたには、一緒に来てもらうよ。200年前への旅にね」
「何だって?」
「万が一、ラステルの想いだけでは足りなかった場合に備えてのことさ。あんたも、5万コールの借金を踏み倒して逃げたユーディットには、相当な執念を燃やしているんだろう?」
「それはそうさ。僕は、貸した金は何としてでも取り立てるのがモットーだ。この20年間、踏み倒された5万コールのことを忘れたことはない」
「あんたのその執念と、ラステルの想い・・・。このふたつが揃えば、200年前のライフ村への旅は万全だ。ふふふふ」
ヘルミーナの言葉に、ヴィトスはしばらく考え込んでいたが、やがて大きくうなずき、にやりと笑った。
「いいだろう。僕も彼女にはひとこと言ってやらないと、気が済まないからな。借金を返してもらえるなら、時空を越えてでも出かけて行ってやる」
「だけど、ひとつ問題があるよ」
クリスタが口を挟んだ。
「ヴェルンの例の古代遺跡だけど、あなたたちも、あの場所から200年前へ行こうとしてるんだろう?」
「もちろんさ。時空を越える魔力は、あそこでしか発揮できない」
「情報によると、あの遺跡はフィンデン騎士団がかなり警備を固めているみたいだよ」
「ふふふふ、確かに、あのストーンサークルは魔力の集中地点だからね。精霊騎士が注目するのも無理はないだろうね」
「どうするんだい? ストーンサークルを使うには、騎士隊を排除しないといけないんだよ。それに、あなたたちが戻るまで、邪魔が入らないようにストーンサークルを確保しておかなければならない」
「ふうん、それは考えてなかったね」
ヘルミーナは肩をすくめた。
「まあ、いいさ。新たに『竜の砂時計』を作るには2、3日かかる。その間に考えるとしよう。シグザールの援軍もその頃には着くだろうしね、ふふふふ」
ユーディットが遺した外枠を使った『竜の砂時計』が完成したのと、シグザールからの援軍がアルテノルトに到着したのは同じ日だった。
ダグラスを始めとする遠征隊の面々が、広間に通される。広間ではクリスタや錬金術士が待ち受けていた。
「無事、着いたようだね、ふふふふ。まあ、これからうんと戦ってもらわなきゃならないんだから、五体満足でいてもらわないと話にならないしね」
ヘルミーナが腕組みをして不気味に微笑み、後ろでマルローネが笑顔で手を振る。
「やっほ〜! みんな、久しぶり〜!!」
「マリー!? なんで、あんたがいるんだよ?」
マルローネの姿を見て、ルーウェンが目を丸くする。ヘルミーナとアイゼルがグラムナートにいることは聞いていたが、マルローネとクライスまでがいるという情報は、ザールブルグには伝わっていなかった。
「ふん・・・、おおかた、実験に失敗でもして、吹き飛ばされたのだろう」
「シュワルベ! 勝手に変な想像しないでよ!」
「当たってるじゃないですか」
「ねえねえ、お腹すいちゃったよ〜。なんか美味しいものない?」
広間は急ににぎやかになる。
ダグラスがつかつかとアイゼルに歩み寄った。ふところからノルディスの手紙を取り出す。
「忘れちまうといけねえから、先に渡しとくぜ。ノル公からのラブレターだ」
「まあ・・・」
頬を錬金術服と同じ色に染めて、アイゼルが受け取る。胸の前で手紙を握りしめ、目を閉じたアイゼルを、ダグラスはしげしげとながめ、
「それにしても、おまえ・・・少し太ったんじゃねえのか?」
「何ですって!?」
目をつり上げたアイゼルの頬が朱に染まる。だが、今度は先ほどとは理由が違うようだ。
「おいおい、何言ってるんだよ、ダグラス」
ルーウェンがとりなすように割り込む。にこやかにアイゼルを見やり、
「久しぶりだな・・・。しばらく見ないうちに、ずいぶんとスタイルが良くなったんじゃないか?」
「な、何を言ってるの?」
アイゼルははにかむように目を伏せた。そして、手にしていた手紙に改めて気付いたように、
「ちょっと、失礼するわ」
と広間を出て行った。ひとりでゆっくり読むつもりなのだろう。
「な?」
ルーウェンはダグラスにウインクをして見せる。
「言い方ひとつで全然違うんだ。あんたも、少しは女心を勉強しなきゃだめだぜ」
「けっ、余計なおせっかいしやがって」
ダグラスはぷいと横を向いて、ヘルミーナにどなる。
「おい! そろそろ状況を教えてくれ。俺たちは何をすりゃあいいんだ?」
「ふふふふ、あわてなくても、これから説明してあげるよ」
ヘルミーナの返事に、ダグラスが声を張り上げる。
「よっしゃ、全員静まれ! 作戦会議だ!」
すぐに広間はしんとなる。クリスタは感心して、小さく口笛を吹いた。
(ふうん、こいつはなかなか頼りになる連中だね)
数刻をかけて、現在のグラムナートの状況と、間近に迫ったマッセンハイムでの作戦の概要が語られた。質疑応答の後、全員を見渡して、ヘルミーナが言った。
「まず、当面やってもらいたいのは、ヴェルンの魔法陣を確保することだね」
数日後の夕刻――。
ヴェルンから湖を挟んだ東岸に広がる森に身をひそめる一団があった。
学者の街として知られるヴェルンは、王国南部の湖リーゼトレーネに浮かぶ島に建設されている。島からは三方向に橋が渡され、本土とつながっている。そのうちのひとつ、東大橋を渡ると森が広がり、それを縫って『南東街道』がアルテノルトへと伸びている。街道の北側の森の奥に、この一団が目指す古代遺跡があった。
「あと一刻ほどで、日が暮れるよ。準備はいいのかい?」
ヘルミーナがささやく。
「ばっちり、準備完了ですよ」
マルローネが傍らのかごを見やる。小さなかごの中には、黒いかたまりと黄褐色のかたまりが10個あまり入っている。2種類の爆弾の数は、ほぼ半々だ。
「あたしの新型爆弾があれば、フィンデン騎士団を遺跡から追い出すなんてちょちょいのちょいよ」
「本当かよ。口だけじゃねえだろうな」
「何よ、信用できないの?」
マルローネがダグラスをにらむ。
「大丈夫だろう。他のことはともかく、爆弾に関してだけは、マリーは信用できるからな」
「そうそう、爆弾に関してだけは――って、ルーウェン、どういう意味よ!?」
「ん〜、マリーって相変わらずだね〜」
「さっさと行こう。久しぶりに腕が鳴るよ」
「静かにしろ、みんな、うるせえぞ」
ダグラスの声に、森の中は静かになる。
「もういっぺん、おさらいをしておこう」
ダグラスは周りに集まった顔を見回した。
参加しているのは、シグザールからの遠征隊の半数と、ヴィトス、ヘルミーナ、マルローネだ。残りの錬金術士は、シュルツェ屋敷で『竜の砂時計』の属性強化に取り組んでいる。本来ならマルローネもそちらにいなければならないのだが、グラムナートへ来てから考案したという新型爆弾の性能を試したいからと、同行して来たのだ。
ダグラスは続ける。
「目的地のストーンサークルの周囲には、フィンデン騎士団の一個分隊が常に詰めているそうだ。10人ちょっとだな。まず、マルローネの爆弾で、そいつらを遺跡から追い払う。その隙に遺跡を確保して、ふたりが『竜の砂時計』で200年前へ行くって寸法だ。当然、追い払われたフィンデン騎士隊はしばらくすれば戻ってくるだろうから、残りの全員でやつらを近づけないようにする。かといって、やつらをヴェルンに戻らせるわけにもいかねえ。応援を連れて来られると厄介だからな」
全員がうなずくのを見て、続ける。
「ただ、これだけは覚えとけ。俺たちの敵はフィンデン騎士隊じゃねえ。やつらは操られているだけだ。本当の敵は他にいるってことを忘れるんじゃねえぞ」
「了解!」
「じゃ、先発隊、そろそろ行くよ」
ナタリエが言って、爆弾が入ったかごを手にするすると手近の木に登っていく。すぐにマルローネも続く。身軽なふたりが、木の上からフィンデン騎士隊に爆弾を見舞うのだ。
「よっしゃ、残りは全員、ゆっくりと遺跡に接近。合図と同時に突入して遺跡を確保する。いいな」
ダグラスが指示した。
「どう? このくらいでいいかな?」
からみ合った枝をすかして、ナタリエが下を覗く。
「うん、いいんじゃない?」
マルローネもうなずいて、見下ろした。
眼下では、沈み行く夕日に照らされて、石柱が長い影を魔法陣に投げかけている。ストーンサークルの周囲には、10人あまりの青い鎧を着た騎士が見張りに立っている。だが、騎士たちにあまり緊張感は感じられない。だらしなく石柱にもたれたり、座り込んでおしゃべりをしている男もいる。
「でもさあ、どうしてこんな格好をしないといけないのさ」
ナタリエがぼやいた。
「これじゃ、目立ってしょうがないよ。デア・ヒメル(*4)の趣味じゃないね」
マルローネの指示で、ナタリエは髪を白い布で包んでいる。
「あはは、ごめんね。でも、念には念を入れてってことでさ」
マルローネが笑って言う。
「じゃあ、始めようか。日が暮れる前に、やらないとね」
「ほい来た」
マルローネが伸ばした手に、ナタリエはかごから取り出した黒い爆弾を渡す。
マルローネは目を輝かせ、振りかぶった。
「第1波、『墨クラフト』(*5)、いっけええ〜っ!!」
遺跡にたむろしている男たちに、次々と投げつける。破裂した爆弾からは黒い液体が飛び散り、男たちの身体を真っ黒に染める。
「わっ!?」
「な、何だ、こりゃあ?」
頭から顔から、墨汁を浴びせかけられたような格好になった騎士たちが、悲鳴をあげ、驚いたように顔を見合わせる。青かった鎧も、真っ黒だ。
「誰だ、こんなふざけた真似をするやつは!?」
どなって剣を抜く者もいるが、ほとんどの騎士は手で顔や頭をぬぐおうとしている。
「よぉし、第2波、行くよ〜!!」
今度はナタリエが黄褐色の爆弾を手渡す。
「『蜂クラフト』(*6)、いっけえええ〜っ!!」
マルローネの手から放たれた爆弾は、空中で次々に破裂する。
次の瞬間――。
無数の羽音が、遺跡の上空に響き渡った。
「うわっ!」
「何だ!?」
「痛ぇ!!」
「ハチだぁっ!」
凶暴なキュクロスバチの大群が、うなりを上げて騎士たちに襲い掛かった。
「た――助けてくれえっ!」
「逃げろ!」
互いにぶつかり合ったり、夢中で手を振り回したり、右往左往する男たちに蜂は次々に群がり、鋭い針を突き立てる。頭といい顔といい、鎧の隙間にも容赦なく入り込んでいく。
「み――湖だ! みんな、水にもぐれ!」
ようやくまともな考えにたどり着いたひとりが叫ぶ。騎士たちは、蜂の群れにたかられたまま、算を乱して森に駆け込み、リーゼトレーネの湖岸を目指した。(*7)
「よし、作戦成功!」
ナタリエが鋭く口笛を鳴らす。すぐに応えが返り、ダグラスが率いる本隊が遺跡に到着した。
「ふうん、大したもんだね、ふふふ。爆弾に生きた蜂を詰め込むとは――」
木から降り立ったマルローネに、ヘルミーナが言う。
「あはは・・・。まあ、転んでもただでは起きないというか・・・」
マルローネは照れくさそうに頭をかいた。ホーニヒドルフで名物の蜂の巣を見た時の体験(*8)にヒントを得て、カロッテ村の周辺でキュクロスバチの巣を大量に集め(*9)、アルテノルトで調合した(*10)オリジナル爆弾が、ついに真価を発揮したのだ。もちろん、最初に黒い染料を詰めた爆弾を見舞ったのも、黒い色でキュクロスバチの凶暴性をあおりたてるためだし、ナタリエに白い布をかぶらせたのも蜂の目標になるのを避けるためだ。グレゴールの言葉を、マルローネはちゃんと覚えていたのである。
「だけど、蜂が戻って来やしないか?」
ルーウェンが心配そうに言う。
「あ、だいじょぶだよ。夜になると、蜂は活動が鈍るんだって(*11)」
「なるほど、だから作戦決行を夕方にしたのか」
見れば、あたりは薄闇に包まれ始めている。
「時間がもったいない。始めるとしようかね、ふふふ」
ヘルミーナはふところから『竜の砂時計』を取り出すと、ヴィトスをうながして魔法陣の中央に歩み入る。
「準備はいいかい」
「ああ、ユーディットの証文も、ちゃんと持って来た」
「ふふふふ。それじゃ、後は頼むよ」
「任しとけ。あんたらが戻るまで、何日でも遺跡は守っていてやるぜ」
ダグラスが言う。
「ん〜、でも、お腹がすいちゃうから、なるべく早く戻ってよね〜」
「あんたはそれしか考えられないのかい?」
「だって、こっちへ来てから、まだ美味しいもの食べてないんだもん」
「あたしは食べたよ。出かける前にシュルツェ屋敷の台所へ忍び込んで、ちょっとね」
「あ、ずる〜い!」
「けっ、好きにやってろ」
ミューとナタリエの言い合いにうんざりした顔を向けて、ダグラスが振り返る。
「よっしゃ、いつでもいいぜ」
「それじゃ、行くよ、ふふふふ」
ヘルミーナは、左手の杖を魔法陣の中心にすえ、『竜の砂時計』を持った右手を高くかかげた。ヴィトスは寄り添うようにヘルミーナの杖を握る。
ヘルミーナが念をこめると、砂時計の中心がぼうっと輝き始め、呼応するように周囲の石柱から光の矢が伸びる。
「うおっ!」
「すごい!」
「わ〜、美味しそうな色だね〜」
「またそれかい」
周りから口々に声がもれる中、まばゆい光に包まれたヴィトスとヘルミーナの姿が、だんだんと薄れていく。
そして、壮大な光の柱が天に向かって伸び――まぶしい閃光となって消えた。
魔法陣には、何も残っていなかった。
しばらく茫然と見つめていた面々は、徐々にわれに返る。
「行っちまったか・・・」
ルーウェンがつぶやいた。遠くを見るような目でミューが言う。
「200年前にも、美味しいものってあるのかな〜?」
「あんたはそればっかりだね」
「あ、あたしはアルテノルトへ帰るよ。クライスがぶーぶー言ってるだろうからね。みんなを手伝わなくちゃ」
マルローネは言うと、『空飛ぶじゅうたん』を広げ、飛び乗った。
「ああ、連絡も頼む。うまくいってるってな」
「はいよ」
ダグラスはマルローネを見送ると、一同に向き直った。
「よし、全員、手はず通り森へ散れ。ふたりが――いや、3人か。とにかく、連中が200年前から帰って来るまで、ここを守り抜くんだ。いいな!」
その数刻後――。
蜂に襲われたフィンデン騎士隊員が、三々五々、遺跡へ戻ろうとしていた。持ち場を離れたことが上司にわかったら、理由はどうあれ、厳しい処分を受けることになる。
数人の騎士が木々の影が黒々と落ちる森の小道を進んで行くと、突然、ひとりの人影が浮かび上がった。
「何者だ!?」
先頭の騎士が誰何する。相手はのんびりした声で答えた。
「ごめんね〜、ここは通行止めなんだ」
「女か!? こんなところで何をしている?」
繁みがうごめき、ミューの傍らにもうひとりの影が現れる。
「悪いな、ちょっとこの先で貸切パーティをやっていてね。関係者以外は立ち入り禁止なんだ」
ルーウェンがすまして言う。
「何だと? ふざけるな! 貴様ら、何者だ!?」
「ほんの通りすがりの旅の者さ」
「怪しいやつめ! おい、こいつらをひっ捕えろ!」
だが、呼応する騎士はいない。
「どうした!?」
後ろを振り返った先頭の騎士は、言葉を失った。他の騎士は全員、地面に倒れて身動きもしない。
「フ・・・。遅い・・・」
音もなく背後に忍び寄っていたシュワルベが、しびれ薬を仕込んだ針で首筋を軽く突く。最後の男も他の騎士と同様、身体から力が抜け、くたりと倒れ伏した。
「よし、縛り上げようぜ」
ルーウェンがロープを取り出し、にやりと笑った。
同じような場面が、この晩、森のあちこちで繰り広げられたのだった。
同じ頃、シュルツェ屋敷では、徹夜の調合作業が行われていた。
クライスとアイゼルが作業台に張り付き、ヴィオラートがこまねずみのように器具やアイテムを持って周囲を駆け回る。
「ヴィオラート、『グラビ結晶』は用意できた!?」
「はい!」
「すみませんが、『暗黒水』を試験管に取り分けて、濃縮してください」
「わかりました!」
『竜の砂時計』のそれぞれに、錬金術の六つの属性を個別に付与しようとする作業は、佳境に入っている。
「でも、本当にこのアイテムでいいんでしょうか?」
アイゼルがクライスを振り向き、不安そうに言う。
「最善を尽くすしかありませんよ。魔法書が不完全な以上、自分の判断を信じるしかありません」
クライスは汗にまみれた手で眼鏡の位置を直し、きっぱりと答えた。
「赤・青・緑・白・灰・金――これらの属性を最大限に発揮できる材料を、『竜の砂時計』に封じるのです」
「そうですね・・・」
アイゼルはくちびるを引き結び、再び作業台を一心に覗き込む。
その時、部屋の隅のテーブルで魔法書をめくっていたオヴァールが大声をあげた。
「おい!」
「どうしたのですか?」
クライスが自分の手元に目をすえたまま、うるさそうに言う。
「ちょっと、これを見てくれ!」
「今は手が放せないのです」
「誰か、本にレシピを書き加えたやつがいる!」
「何ですって!?」
思わず、クライスもアイゼルも手を止め、オヴァールのところに駆け寄る。
「ここだ・・・」
オヴァールは震える手で魔法書を示した。ヴィオラートもおずおずと背後から覗き込む。
そのページは、“六芒星封魔陣”について書かれた最後のページだった。キーアイテムである『竜の砂時計』の5番目の材料として“属性”というカテゴリー名称が書かれ、以降は空白になっていた。
これまでは――。
だが、今、空白だったページはびっしりと細かい文字でおおい尽くされている。
「これは――?」
クライスが本をひったくるようにして、目を走らせる。
「各属性の具体的な材料名称と、配分比がこと細かに記されています・・・」
「もしかしたら、マルローネさんが?」
アイゼルが眉をひそめながら言った。クライスは首を振る。
「いいえ、そうではありませんね。マルローネさんは、こんな丁寧な字は書けません。それに、見てください」
前のページを指し示す。
「筆跡が、元の部分とまったく同じでしょう?」
「それに、インクのかすれ具合から考えても、昨日今日に書かれたものじゃないな」
オヴァールが腕組みをして、考え込む。
「僕はいろいろな古書を見てきたから、わかる。この記述は、他の部分と同時代のものだ」
「でも、確かに、さっきまでは書かれていなかったのに・・・」
アイゼルが大きく目を見開き、震える声でつぶやいた。
「ですが、由来はどうあれ、これらのレシピは理にかなっています」
クライスはアイゼルとヴィオラートを振り返った。
「このレシピに従って、調合をやり直しましょう」