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〜50000HIT達成謝恩企画〜

リリーの同窓会


第4章 財宝と竜

“彼女”は自由だった。
あたりには自分を邪魔するものは何もなく、ただゆったりとした大きなうねりがあるばかりだ。
いつからそこにいるのか、どうやってそこに来たのか、“彼女”は覚えていない。ただ、気がついたら、“彼女”はそこにいた。広大な、塩辛い水の中に。
ここでは、“彼女”に敵はなかった。
“彼女”は、本能の赴くまま、水中で狩をした。細長い身をくねらせて、回遊する魚の群れに追い迫り、鋭い牙で切り裂き、むさぼり食った。
飽食すると、“彼女”は冷たい水の流れを求めて海底深くにもぐり、岩と岩の間に身をひそめて眠った。
そして、空腹に目覚めると、再び“彼女”は水面近くの暖かな水の流れの中に浮かび上がり、獲物を追った。
そんな時は、“彼女”が身をくねらせて引き起こす渦巻きが海面をおおい、吹き上げられた水蒸気が上空に雲を作った。雲は風を呼び、雨を降らせ、あたりはあっという間に荒れる波と暴風雨に支配された。
波頭に踊る“彼女”の青黒いうろこは逆立ち、稲妻の光を反射して妖しくきらめいた。とどろく雷鳴と呼応するように、“彼女”があげる咆哮が、大気を切り裂いて響いた。
だが、それを目にし、耳にして、語り伝える者は誰もいなかった。
これまでは・・・。
ある時、海面近くにたゆたっていた“彼女”は、記憶にないにおいを感じた。
それは、心騒がせるような、複雑なにおいが入り混じったものだった。“彼女”の大きな黄色い瞳が、なにかを考えているかのようにぎろりと光った。
“彼女”は興味を引かれ、巨大な身体をうねらせると、そのにおいがやって来る方向へと泳ぎ始めた。
鋭い縁をもった背びれが穏やかな海面を切り裂く。巨大な鼻面を、時おり水面からもたげ、“彼女”は東へ東へと進んでいった。
太陽が昇ってくる方向へと。
“彼女”が感じたもの・・・。
それは、陸地のにおいであり、そこで生活する生き物のにおいだった。

「ひゃっほう!」
「いいぞ、ロマージュちゃん!」
酔っ払いの歓声が響き、ご祝儀代わりの銀貨が飛び交う。
港町の酒場は、まだ宵の口だったが、漁師たちは朝が早い。つまり、翌日の漁に差し障りが出ないように、早く寝る必要がある。だから、酒を飲みたい者は、まだ外が明るいうちから飲み始め、早いうちから酔っ払ってしまうのだ。それを知っているから、店の方も昼間から開いている。中には、開店と同じにやって来て、看板まで飲んだくれている客もいた。
酒場の隅では、楽器を抱えた数人の男たちが、南国風の音楽をかき鳴らしている。
急ごしらえのステージに立ち、肌もあらわな衣装を身に着けて、踊り子のロマージュは、その音楽に身をまかせ、酔客たちの目をくぎ付けにさせていた。
(ふう・・・。この酒場にも、いい男はいないわねえ)
長い銀髪を振り乱して舞う、色っぽい踊りとは裏腹に、ロマージュはいつも通りのさめた心で、酒場に群れ集う男たちを観察していた。
ロマージュは18歳だが、整った顔立ちと色っぽい声音のためか、年齢以上に落ち着いて見える。13、4の時に故郷の南の村を離れ、旅の踊り子として世界各地を流れ歩いてきた。この港町カスターニェには、南方からシグザール王国へ向かうキャラバンに同行して来たのだが、海辺の町のたたずまいが気に入ったロマージュは、しばらくカスターニェに身を落ち着けることにしたのだった。
そして、町にあるいくつかの酒場で踊り子をしながら、毎日を過ごしていた。
この酒場も、町の他の酒場と変わりない。客のほとんどは地元の漁師や船乗りで、旅の商人や冒険者はわずかしかいない。
がたがた揺れる木製の狭いステージを舞い踊りながら、ロマージュは客のひとりひとりを観察していた。
ステージのすぐ下に寄り集まって、銀貨を投げ入れたり叫びをあげているのは、地元の常連客だ。端の方のいくつかのテーブルにも、地元の漁師たちが陣取って、エールのジョッキを空けている。
ロマージュが目をとめたのは、入り口から遠い一画に座って、なにやら話し込んでいるふたりの男の姿だった。
かれらは、ロマージュの踊りなど目に入っていないかのように、熱心に話を続けている。
(ひとりは、町の武器屋さんね・・・。もうひとりは、初めて見る顔・・・あら、ちょっと渋くて、いい男じゃない・・・。歳はくってるみたいだけど)
ちらちらとそちらの方へ視線をやりながら、ロマージュは地元客の方に色っぽい流し目をくれるのも忘れなかった。
客の期待に最大限に応えつつも、次回への期待を持たせる。プロの踊り子とは、そういうものである。

「・・・ということは、あんたの店では、ドムハイト製の武器が手に入るってわけだな」
テーブルを挟んで、ランプの灯りにゆらめく相手の顔を見つめ、その旅の交易商人は言った。
「そうともさ。うちの店では、バッタもんは一切扱わねえ。ファルカタとかコルセスカとか、珍しい武器もあるし、期待は裏切らないよ」
と、カスターニェ唯一の武器屋の主人であるシュマックは答えた。主人とは言っても、まだ20代の半ばである。ドムハイト出身の彼は、冒険者稼業をしていたが、ドムハイトとザールブルグの国境で妙な事件に巻き込まれ、逃れるように、このカスターニェまで流れてきたのだ。
そして、もともとの武器集めの趣味が高じ、とうとう数年前に、武器屋を店開きしてしまったのである。
「それにしても、平和そのものって港町じゃねえか。こんなところで商売になるのか?」
交易商人は、目を細め、鋭い視線をシュマックに向けながら尋ねる。
「そりゃまあ、平和といえば平和だけどね。戦争も起きないし・・・。でも、町の外へ行けば魔物も出るから、やっぱり武器の需要はあるんだ。もっとも、近くに出る魔物といえばぷにぷにとかオオカミなんで、危険は少ないけどね」
「魔物か・・・。俺も若い時にはけっこう冒険して、魔物とも戦ったぜ。ま、今も珍しい品を探して王国中をあっちこっちへ交易して回ってるから、同じといやあ同じなんだがな」
商人は言い、テーブルについた両手を組んだ。
「じゃあ、決まりだな。明日、あんたの店へ行く。珍しい武器があって、俺の気に入れば、あんたの言い値で買う。気に入らなけりゃ、それまでだ。いいな」
シュマックは、同意のしるしにエールのジョッキを掲げて見せる。相手もそれにならった。
「じゃあな」
テーブルの上に数枚の銀貨を置き、商人が立ち上がった時だった。
酒場の反対側のテーブルで、怒号が響き、椅子が壁際まで吹っ飛んだ。
その大きな音に驚いたように、楽団が演奏をやめる。

酒場の中は、しんと静まり返った。
「てめえら、揃いも揃って、利いた風な口を叩きやがって・・・。勘弁できねえ!」
よろよろと立ち上がったのは、たくましい体つきをした、中年の漁師だった。顔が赤黒く染まっているのが、日焼けのせいなのか、酔いが回っているのか、怒りのせいなのかはわからない。
彼は、金属製のジョッキを叩きつけるようにテーブルに置くと、ひとつ大きなげっぷをして、一緒に飲んでいた漁師たちをぎろりとにらんだ。
「ま、まあ、そう怒るなよ、イェーダの親父さん」
なだめるように、若い漁師が言う。
「俺たちは、親父さんのためを思って・・・」
「だって、このままじゃ、おかみさんやユーリカちゃんがかわいそうだぜ」
「ああ、そんな、いつまでもばかみたいな夢を追っかけいたんじゃさあ・・・」
周囲の漁師たちは、口々に言う。
だが、イェーダと呼ばれた漁師は、ますます激昂したようだった。
「おまえらにゃ、関係ねえ!!」
怒鳴ると、手近にいた漁師の胸ぐらをつかむ。
「誰がばかだって!? おまえらにゃ、何にもわかっちゃいねえんだ」
だが、他の漁師たちもひるまない。
「だってよ、親父さん、漁師は魚を獲ってなんぼなんだぜ。魚も獲らずに、ありもしねえ宝物を探し続けるなんてよ」
「そうだよ。あんなに小さいユーリカちゃんが、代わりに海に出て、漁をしてくれてるから、生活できてるんじゃねえか」
「目を覚ませよ、親父さん。俺たちゃ、親切で言ってるんだぜ」
「うるせえ! おめえらの指図は受けねえ! 俺は、間違ったことはやってねえぞ! 本当にあるんだ、英雄ヴァルフィッシュが遺した財宝はよ・・・」
最後の言葉は、切れ切れになって消えていった。
イェーダは、荒々しく人垣を押しのけると、よろよろと酒場の外に出た。
「ばかやろう・・・」
誰に言うともなく、吐き捨てるようにつぶやく。
そして、涼しい海風が吹き寄せる夜道に足を踏み出す。
その肩に、手が置かれた。
びくっとして振り向くと、見知らぬ男が立っている。
「おっと、怪しい者じゃねえよ。ただ、さっきあんたが言ってたことに興味があってな・・・」
男は、鋭い目つきで漁師を見つめ、言った。
「ヴァルフィッシュの財宝・・・って言ってたな。俺はそういう珍しい話や変な物が大好きなんだ」
そして、男はどんよりとにごったイェーダの目をのぞき込んだ。
「俺の名はヴェルナー。ザールブルグを根城に交易をやってる。・・・その財宝の話、もっと詳しく聞かせてくれねえか」

「ずうっと昔、この地方にヴァルフィッシュという人がいたらしいんだ」
潮風に褐色の髪をなびかせながら、ユーリカが言った。
「たくさんの手下がいて、海賊や盗賊みたいなこともやってたらしいんだけど、襲うのはお金持ちや貴族ばかりで、普通の村や町には手を出さなかった。だから、みんなは怖がることもなかった・・・。まあ、英雄っていうのかな」
「ふうん、おまえさん、小さいのに詳しいんだな」
舷側に張り渡された手すりにもたれて、ヴェルナーが振り向く。傍らの木箱の上にちょこんと座ったユーリカは、まだ10代の前半である。むき出しの腕や脚は健康的に日焼けしており、父親譲りの青い瞳は大きく、見つめていると吸い込まれそうな気分になる。無邪気な少女らしさと、歳に似合わぬ大人っぽさが同居した、不思議な瞳だ。
「毎日、父さんに聞かされてるから・・・」
ユーリカは、船尾を見やって答える。
ユーリカの父親は、船尾に立ち、舵輪を握り締めながら、水平線をにらみつけていた。昨夜の酒は抜けているらしく、目には光が戻ってきている。
カスターニェの埠頭を離れてから、既に数時間が経過していた。
イェーダの持ち船である小型の漁船は、大きく張り広げた帆に風をはらみ、順調に航行していた。
空は雲ひとつなく晴れ渡り、照りつける日差しがまぶしかった。
行く手の水平線には、ぽっかりと黒い島影が浮かんでいる。
「“つぶて島”だよ・・・」
ヴェルナーの視線を追ったユーリカが、問わず語りに言った。
「あそこに、ヴァルフィッシュの財宝が隠されてるって、父さんは信じてる」
昨夜、突然声をかけたヴェルナーに、漁師イェーダは翌日の探索行に同行するのを許したのだった。
ヴェルナーは、交易用の品々を宿に残し、軽いザックだけを背負って、船に乗り込んでいた。
風が、急に強まるのを感じる。
「“つぶて島”の近くは、いつも風が強いんだ。ちょっと揺れるよ」
木箱から降りたユーリカは、父親の指示を待たずに、ロープに取りついて主帆を縮めにかかる。
「へえ、慣れたもんだな」
ヴェルナーが感心して言う。ふと目を移すと、“つぶて島”はもう間近に迫っていた。
島を囲む岩礁に波が当たり、白いしぶきが上がっている。島の中心部は、深い森のようだ。
イェーダは大きく舵を切り、島を回りこむように船を進めた。
白い砂浜が正面に広がる。
「錨を下ろせ!」
父親の声に、ユーリカは身軽に船首に向かう。
がらがらと大きな音がして、金属製の錨が海中に消える。
船腹に打ち寄せる波をついて、3人はボートを下ろし、上陸に備えた。

その日は一日中、森の中を探索したが、財宝の手がかりらしいものは見つからなかった。
だが、珍しい薬草や木の実があちこちにあり、ユーリカがいちいち手にとって教えてくれた。ヴェルナーは大喜びで、それらをザックにしまった。
「この北にあるミケネー島へ行けば、もっとたくさん珍しいものが取れるんだけどね。でも、あそこは危ないよ。火を吹く怪物が住んでるからね」
枝からもいだばかりのみずみずしい果物にかぶりつきながら、ユーリカが言う。島へ入るとともにいっそう寡黙になってしまった父親は、黙りこくって鉈を振るい、森を切り開いて道を作っていた。
その夜は、砂浜の近くでキャンプを張った。
“つぶて島”には、大型の野獣はいないという。夕方にユーリカが釣ってきた魚で夕食を済ませ、3人はたき火を囲んで座っていた。
会話はほとんどない。ヴェルナーが話しかけても、イェーダは短い答えを返すだけで、話の接ぎ穂は失われてしまう。父親にならったのか、ユーリカも無口だった。
ユーリカは、つと立ち上がると、砂浜の方に歩いていった。
イェーダはごろりと横になり、やがていびきをかき始めた。
ヴェルナーは手持ちぶさたに小枝を折りながらたき火の火を守っていたが、ユーリカはなかなか戻ってこない。
(チッ、しかたねえな)
ヴェルナーは立ち上がると、砂を払って海辺に向かった。
見上げれば、満天、宝石を撒いたように星々がきらめいている。波が打ち寄せる音が、繰り返し響いてくる。
黒い影が、砂浜にうずくまっていた。
立てた膝を両腕でかかえ、ユーリカはじっと真っ暗な海のかなたを見つめていた。
せき払いをして、ヴェルナーが隣に腰を下ろす。
「今日も、見つからなかった・・・」
ユーリカは沖を見つめたまま、つぶやいた。
「ああ、そうだな」
どう答えてよいかわからず、ヴェルナーはぶっきらぼうに言った。
「でも、見つからなくて、ちょっぴりほっとしてる・・・」
潮騒にかき消されそうな、小さな声だ。
「どうしてだ?」
ヴェルナーの問いに、視線を向けることなく、ユーリカはぽつりぽつりと語った。
「ヴァルフィッシュの財宝を見つけるのは、父さんの夢なんだ・・・。そのために、父さんは漁もやめちゃった。町の連中は、父さんの悪口を言ってる・・・。でも、あたしも母さんも、父さんを信じてる。でも・・・」
ユーリカはそっと砂をすくいあげ、さらさらとこぼした。
「もし、財宝が見つかっちゃったら、そのあと、父さんはどうなるんだろう・・・。そうやって考えると、見つからない方が、いいのかなあ・・・って」
ヴェルナーは、ユーリカの頭にぽんと右手を置いた。
「おまえ、いい子だな・・・」
波の音に耳を傾けながら、親子ほどに歳の離れたふたりは、夜がふけるまで物思いにふけっていた。

翌朝、魚の串焼きと果物の朝食を済ますと、3人は船に戻り、カスターニェへ返るために錨を上げた。
北西の順風に恵まれ、船は波頭を切って進んでいった。
相変わらず、イェーダは黙りこくって舵輪を握っている。今回の探索も実りがなかったので、落胆しているのかも知れなかったが、その顔色からは内心をうかがい知ることはできなかった。
その奇妙な雲に気付いたのは、右舷に立ってぼんやりと遠くの海面をながめていたヴェルナーだった。
「おい、何だ、あれ?」
ヴェルナーの声に、ユーリカが寄って来る。
水平線に、大きく盛り上がった黒い影。島影かとも思ったが、来た時にはそんなものを目にした覚えはない。
「雲だね・・・。嵐が来るよ」
ユーリカのつぶやきに、父親が口を開いた。
「時化だと? この季節にか。そんなばかな!」
「でも、父さん、あの雲を見てよ」
水平線にへばりつくように低くたちこめた黒雲は、見る見るうちに近づいて来る。だが、普通の嵐のように、空全体が雲に覆われるという感覚ではない。
雲は、海上の一点に集中しており、その下では雨が降っているようだ。雷鳴のようなとどろきが聞こえ、稲光も見える。
しかし、目を移すと、それ以外の場所は晴れ渡っている。
「局地的な時化だと!? そんなばかな!?」
イェーダがもう一度、怒鳴った。
天気雨ならば、ヴェルナーも体験したことがある。でも、そのような時でも、空の半分以上は雲に覆われ、その隙間から日差しが差し込んでいたものだった。このように、天のごく一部だけで嵐が荒れ狂っているなど、聞いたことがない。
「見て! なんか見えるよ!」
するするとマストに登っていったユーリカが、見張り台に立って目をこらす。
「白い帆が見える。船だ!」
その声に、イェーダが大きく舵を切った。
船は、正面から嵐に向かっていく形になる。
「おいおい、近づいたりして、危なくはねえのか」
船尾を振り向いて叫ぶヴェルナーに、漁師は怒鳴り返す。
「どこかの船が難儀してるのを、放ってはおけねえ! 海の男の掟だ!」
「チッ、しゃあねえな・・・。俺の命、あんたに預けるぜ!」
言い返すと、ヴェルナーは頭上を振り仰ぐ。
「おい、ユーリカ! おまえも降りて来た方がいいんじゃねえのか?」
「それより、見て! 何だろう、あれ?」
上から聞こえる声に、ヴェルナーは雨にけむる風景に目をこらした。
「何だ、あれは・・・!?」
思わず声がもれる。
雨のヴェール越しに、激しく揺れる船らしい影が見える。その傍らに、大きな柱のようなものが、ゆらゆらと立っている。
それが、不意に動いた。
大きく伸びあがるような動きをし、ぐにゃりと途中から曲がると、船の上にのしかかる。一瞬、光った稲妻に照らされ、青黒い姿が浮かび上がる。
同時に、地獄の底から響いてくるような、無気味なうなり声が風雨の音を圧して耳に届いた。
「ウミヘビか・・・? いや、ばかな! あんなでかいやつは、見たことがない・・・」
イェーダの叫びを背後で聞きながら、ヴェルナーは言葉を失って立ち尽くしていた。
船におおいかぶさった後、その巨大な姿は水面下に没した。そして、それとともに、あれほど荒れ狂っていた嵐は急速に収まっていった。
後に残されたのは、船上の構造物をすべて失った1隻の大型船だった。
「ありゃあ、ボルトの船だ!」
イェーダが叫ぶ。
「早く、父さん、早く! 誰か倒れてるよ!」
ユーリカの声も、悲鳴に近い。
すっかり嵐が収まった静かな海面を、小型船は滑るように進み、ふたまわりほど大きい船に、寄り添うように接近した。
「えい!」
マストから素早く降りて来たユーリカが、手鉤のついた縄ばしごを向こうの甲板に投げ上げる。船が大きい分、甲板の高さが上になっているのだ。
がっちりと引っかかったことを確かめ、ユーリカは縄ばしごに足をかける。
「おい、こいつを持っていけ!」
ヴェルナーはザックから出したガラスの小壜をユーリカに投げる。
「商売もんだが、構うことはない、使ってくれ!」
ユーリカは、『アルテナの傷薬』をしっかり受け取ると、猿のようにするするとはしごを登り、壊れた手すりを乗り越えると、甲板に降り立った。
少し遅れて、ヴェルナーがややぎこちない動きで続く。
「こいつあ、ひでえ・・・」
甲板にはそこここに穴が開き、折れたマストの残骸が飛び散っている。
その瓦礫の中に、ぜい肉ひとつない筋肉質の体格の壮年の男がわき腹を押さえ、うずくまるように倒れていた。わき腹からは血が流れ、甲板に血だまりを作っている。
その傍らには、二十歳前後の若い男が座り込んでいた。こちらはけがはしていないようだったが、顔色は真っ青で、わなわなと震えている。
「助けて・・・助けてくれ・・・。ボルトの兄貴が・・・」
「オットー! しゃきっとしなよ!」
まだ子供のユーリカが、青年の頬をぴしゃりと張り飛ばした。その様子は、まるで息子をしかる母親のようだった。
錨を下ろして船を安定させ、2隻をがっちりとロープで結び終えたイェーダも、乗り移ってくる。
状況を見て取ると、
「おい、ボルト、しっかりしろ!」
背後からかかえて起こすと、血に染まったボルトのシャツをびりびりと引き裂く。ヴェルナーも、無言で着ていたシャツを脱いだ。包帯代わりにしようというのだ。
ユーリカが、帯状に裂いたシャツに『アルテナの傷薬』をたっぷりと塗りつけ、それでボルトの傷をしっかりと被う。なにか鋭い物に切り裂かれたような傷で、出血はひどかったが内臓までは達していないようだった。
ひととおり処置を施すと、深い眠りに落ちたボルトを寝かせ、3人はもうひとりの生き残り、オットーに目を向けた。
ボルトを治療している間も、オットーは手伝えるような状態ではなかった。両手で自分の肩をかかえ、目は宙をさまよい、震えが止まらないようだった。
イェーダが船から持ってきた強い酒を飲ませると、ようやく落ち着いて、話ができるようになった。
ボルトとオットーは、朝早くにカスターニェを出港し、漁に出ていた。潮の状態も良く、魚もよくかかった。ところが・・・
「気がついたら、急に雲がわいて、嵐になっていた・・・。でも、俺たちは心配していなかった。なんたって、ボルト兄貴の船はカスターニェいち頑丈な船だからな・・・。でも、突然、あいつが・・・あの化け物が襲いかかって来やがった。まるで、ヒステリーを起こしたばばあみたいな勢いでよ・・・。ボルトの兄貴は銛で立ち向かおうとしたけど、てんで歯が立たなかった。あいつのウロコがかすっただけで、大けがをしちまった・・・。その後、船をひっくり返されそうになって・・・。後は覚えてねえ・・・」
オットーは、ショックが覚めてきたのか、急に饒舌になって、恐怖の体験を語り始めた。
この時オットーは、自分があの怪物の名付け親になったことには気付かなかった。フラウ・シュトライト(喧嘩婦人)という名前の、恐るべき海竜の・・・。
そして、この事件が、その後何年もカスターニェの住人を悩ますことになる出来事の最初の1回だということには、この時誰も気付いてはいなかったのだ。
ボルトの船は、甲板やマストの損傷は激しかったが、喫水線の下はほとんど無傷だったので、カスターニェまで回航していくことができそうだった。
やがて、ロープでしっかりと繋ぎとめた2隻の船は、風を受け、ゆっくりと進み始めた。ボルトを動かすのは危険だと判断したので、ユーリカとヴェルナーが付き添っている。オットーは、魂が抜けたようになって、小型船の船室で休んでいた。
ヴェルナーは、ぼんやりと空を見上げ、この2日間の体験を思い返していた。
(参ったな・・・。宝物に、竜かよ・・・。これじゃ、まるで、おとぎ話じゃねえか。いくら俺が珍しいもんが好きだっていったって、いくらなんでも出来過ぎだぜ・・・)
「ねえ・・・」
ユーリカに声をかけられて、ヴェルナーははっと我に返った。
「ん、何だ?」
「また来るかな、あの化け物・・・」
「さあな。俺にはわからん」
「やっつけてやる・・・」
小さいが、決意のこもった声で、ユーリカが言う。
「海を荒らすやつは、許さない・・・。絶対に、やっつけてやる。オットーだって、今はあんなになっちゃってるけど、本当はとっても勇敢なんだ・・・。どうやったらやっつけられるのか、わからないけど、みんなで力を合わせれば、きっと・・・」
「ああ・・・。だがな、あんな化け物だ。並みの人間にゃ、いささか重荷だろうぜ」
そう答えたヴェルナーの脳裏に、ひとりの女性の姿が浮かんだ。
かつて、巨大ぷにぷにや『黒の乗り手』を倒した女性。魔物が巣食う塔を征服し、ヴィラント山の怪物を退治した、型破りな錬金術師・・・。
(そうか・・・。あいつなら・・・あいつみたいなやつがいれば、あんな化け物でも、退治できるかも知れねえな)
ヴェルナーは、傾いていく西日に照らされた水平線を見やった。
なぜだか、今日はリリーのことが思い出される。

カスターニェに帰り着いて、宿に戻った時、ユリの花をあしらった手紙を携えた妖精が待っていたのを知っても、ヴェルナーは全然不思議には思わなかった。

<ひとこと>
お待たせしました。カスターニェ篇です。ロマージュさんは、これからしばらくの間、、カスターニェ周辺にとどまっています。そして、数年後にケントニスに向かうマリーと出会うわけで。シュマックさんがドムハイトを去るきっかけになった事件というのは、例の「鋼鉄の甲虫」事件ですね。ユーリカの父ちゃんは、公式設定より少し長生きしてもらいました(公式設定では、ユーリカが幼い頃に病気で亡くなったことになっている)。ヴェルナーは、相変わらず珍しいものを求めて王国中を歩き回っています。家庭を持っているのかどうかはヒミツ。


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