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〜「名探偵クライス」犯人当てクイズ当選プレゼント小説<kozue様へ>〜

国王陛下のメイド探偵エリー

甘い誘惑 [捜査篇] Vol.7


誘惑−10:深夜の人影

頭の中が真っ白になって、しばらく茫然と立ち尽くしていたエリーは、ようやく我に返るとあわてて中庭を抜け出した。
幸い、通廊に人気はなく、見とがめられることもなかった。
目を閉じると、心の底まで見透かすようなゲマイナーの顔が浮かんで来る。秘密情報部長官は、エリーがブレドルフの極秘指令で動いていることなど、とっくにお見通しなのではないだろうか。エリーはこれまで、アカデミー講師のヘルミーナほど無気味で底が知れない人物はいないと思っていたが、どうやら上には上があったようだ。
それにしても――と、エリーは考える。あれほど鋭い知性を持ち合わせているゲマイナーが、お菓子盗難事件について満足な報告も出さないとは、どういうことなのだろう。ブレドルフから聞いた話では、秘密情報部にも盗難事件の調査を命じたものの、いい報告はもたらされていないとのことだった。
もう少し、探りを入れてみる必要がありそうだ。しかし、再びゲマイナーと一対一で話をすることを考えると、足がすくむ。今は、あまり考えたくない。
(ええい、そのことは、また後で考えよう!)
あっさりと割り切って、エリーは当面しなければならないことに集中することにした。聞き込みを切り上げ、午後の残りの時間をブドウ入りチーズケーキ作りに費やすことにしたのである。

部屋へ戻ると、エリーはお昼前に下ごしらえをしておいた材料を取り出し、チーズケーキ作りの最終段階に入った。
お菓子作りに限らず、錬金術の調合に集中していると、雑念は消え頭の中は空っぽになる。そうして白紙になった状態から、不意にまったく斬新なアイディアが浮かんだりもするものだ。しかも、チーズケーキを調合する際のエリーの集中力は群を抜いている。エリー自身、無意識のうちに、なにか事件に光明を与える閃きがもたらされるのではないかと期待していたかもしれない。
だが、作業が一段落するまで、何の考えも浮かんでは来なかった。
出来上がった円形のチーズケーキに生クリームとランドージャムでデコレーションを施し、新鮮な大粒の『幸福のブドウ』をあしらっていく。ナイフを入れて一切れ切り取れば、ハニーカステラの黄褐色、生クリームの白、ランドージャムの赤、みずみずしいブドウの濃紫色が鮮やかなコントラストをなし、食欲を刺激する甘酸っぱい香りが部屋に漂う。
「わあ、今日のもいい出来だよ。我ながら、見とれちゃうなあ」
エリーはうっとりと完成品をながめる。
その時、ドアがノックされた。
「は〜い、開いてま〜す」
思わず、工房にいる時と同じ返事をしてしまい、エリーはぺろりと舌を出す。
「邪魔するぜ、エリー」
勢いよく飛び込んできたのはダグラスだ。
「あ、ダグラス、どうしたの?」
だが、ダグラスはドアを一歩入ったところで立ち尽くし、ぽかんとエリーを見つめている。
なにかおかしな格好でもしているのだろうかと不安になったエリーは、両袖やエプロン、スカートの裾などを確かめたが、特に汚れたりほつれたりしているところはない。
相変わらずダグラスは、奇妙な表情で口もきかずに突っ立っている。
「なに、どうしたの、ダグラス・・・」
ダグラスが、じろじろとエリーをながめる。ヘッドドレスからスカートまで遠慮のない視線にさらされ、エリーはやや赤面し、もじもじと襟元のリボンをいじった。仕草だけは内気なメイドそのものである。
「あ、いや、まあ、その・・・」
ダグラスは我に返ったように視線をはずし、口ごもった。そして、そっぽを向いたまま、ぶっきらぼうな口調で言う。
「意外と、似合ってるじゃねえか」
「まあ、おほめいただけるのですか? ありがとうございます」
何度も練習した仕草で、礼儀正しく一礼する。
「けっ、気取ってんじゃねえよ」
「もう、うるさいな、ダグラスは。せっかく、習った王室の礼儀作法を試してみてるのに」
「まあ、そう悪くはなかったぜ」
視線をはずしたまま、やや赤面してダグラスは言った。
「もっとも、シグザールのメイド服を着りゃ、誰だってそれなりの見てくれにはなるからな。まったく、馬子にも衣装とは、このことだぜ」
「なにそれ!? ひどいなあ。そんな言い方しなくたっていいでしょ」
文句を言いつつも、エリーは、「ダグラスが何と言うか想像がつく」というエンデルクの言葉を思い出していた。エンデルクは、きっとこのことを言っていたのだろう。
「そんなことはどうでもいい。俺はおまえに聞きたいことがあったんだ」
一転して真剣な表情になり、ダグラスは言う。
「へ? どうしたの、あらたまって」
一昨日に聞いたところでは、ダグラスはシグザール城内の警備主任らしい。事件の手掛かりを求めて、あちこちうろつき回っていたのを怪しまれたのだろうか。
口をへの字に曲げたダグラスは、大きく息を吸い込んで、一気に言った。
「エリー、おまえ・・・。隊長とできてるのか?」
「へ?」
エリーはぽかんと口を開ける。だが、すぐに我に返ると、大声で言い返す。
「ダグラスったら、何を言ってるの? そんなわけないじゃない!」
きっぱりした否定の言葉に、ダグラスはほっとしたように表情を緩めた。
「そうか、やっぱりな。俺もそんなわけはねえと思ってたんだ。くそ、あの野郎、後でたっぷり焼きを入れてやる」
「ちょっと待ってよ。あの野郎とか焼きを入れるとか、どういうことなの?」
「騎士見習いの若いのが、控え室で噂してたんだよ。隊長が、新入りのメイドと、普段使われてない小部屋にふたりきりでこもって、その――」
「ああ、そのこと」
エリーはぴんときた。やはり、あの時エンデルクを呼びに来た騎士の卵は、状況を誤解していたのだ。あまりありがたい話ではないが、盗難事件に関してエンデルクに聞き込みをしていたことが知られるよりはましだろう。
ダグラスが目をむく。
「なにぃ? やっぱり本当だったのか?」
「違うよ、エンデルク様と部屋にいたのは本当だけど、お城の中で生活するのに必要なアドバイスをしてもらっていただけだよ」
「し、しかしだな、嫁入り前の娘が、男とふたりきりで――」
「もう! ダグラスはわたしが信じられないの?」
言ってから、いっときはダグラスをお菓子泥棒の犯人ではないかと疑ってしまったのを思い出し、エリーは心の中でわびた。
「でも、ありがとう、ダグラス。心配して、わざわざ来てくれたんでしょ」
「あ、ああ、まあな」
ようやく落ち着きを取り戻したダグラスは、照れ隠しのように室内を見回す。その目が、テーブルの上のチーズケーキに止まった。
「おっ、それはチーズケーキじゃねえか」
「うん、そうだよ。陛下の夜食用に作ったの。ダグラスの意見を入れて、『幸福のブドウ』をあしらってみたんだよ」
「そうか・・・」
ダグラスの視線は、美味しそうなケーキに注がれたままだ。
エリーはくすっと笑って、言う。
「味見してみる?」
ダグラスの目が輝いた。
「おっ、いいのか」
「一切れだけだからね」
「へへっ、いただき!」
ダグラスは大きな手を伸ばそうとする。
「ちょっと待って! 勝手に触らないでよ」
エリーは大ぶりに切ったチーズケーキを皿に載せ、フォークを添えると、正式なパーティーでデザートを給仕する作法通りに差し出す。最敬礼して受け取ったダグラスはケーキをふたつに割ると、大きく口を開け、大粒のブドウが載った方を放り込んだ。作法も何もあったものではない。シスカのテーブルマナーの授業でこんな食べ方をしたら、たっぷりと居残り練習を命じられるに違いない。
ゆっくりと口を動かし、ごくりとのどを鳴らしてのみ込む。残りのケーキも、すぐにその後を追った。 満足げに大きく息をつくと、あきれたように見つめているエリーを振り向く。
「ああ、うまかった。やっぱりエリーのチーズケーキは最高だな」
「えへへ・・・。だって、自信作だもん」
「それに、ブドウの風味が加わったせいで、前よりも一段と美味くなったぜ。どうだ、俺の助言も捨てたもんじゃないだろ」
「そうだね。やっぱり食いしん坊のダグラスだけのことはあるね」
「けっ、食いしん坊は余計だぜ」
「あら、ダグラス様から食い気を取ってしまったら、何が残りますの?」
エリーは気取って、メイド言葉でからかう。
「うるせえな。おまえがお上品なメイド言葉を使ってるのを聞くと、背中がかゆくなるんだよ」
「もう、どうしてなのよ!」
エリーの文句には答えず、ダグラスはしみじみと言う。
「それにしても、陛下はこんな美味いものを毎晩食べてるんだな・・・」
「あはは、ダグラス、うらやましいの?」
「いや、別に」
そっぽを向くダグラス。だが、エリーはダグラスの言葉から、盗難事件のことを思い出した。
いい機会だ。それとなく話を聞いてみよう。だが、ブレドルフの密命で探偵をしていることをけどられるわけにはいかない。エリーはいい考えを思いついた。
「ねえ、ダグラス・・・」
上目遣いで尋ねる。
「ネズミ捕りって、どこかで手に入らないかな?」
「あん? ネズミ捕りだって? どうすんだよ、そんなもん」
「うん、実はね・・・。陛下に聞いたんだけど、夜食のお菓子が、時々ネズミに食べられてしまっているらしいのよ。だから、わたしが何とかしなくちゃと思って」
「ネズミ――!? ・・・ああ、そうか、俺の留守中、陛下がお菓子を盗まれたとか言って、隊長が調べてたらしいけど、ネズミのせいだったってわけか」
ダグラスが大きくうなずいた。
「うん、だから、ネズミ捕りを仕掛けてみようと思って。アカデミーの売店へ行けば売ってるんだけど、わざわざ買いに行ってる時間もないし」
「ああ、それなら簡単だ。出入りの雑貨屋に頼んどいてやるよ。今日はもう遅いから、明日だな。そうすりゃ明後日には届くと思うぜ。いくつ欲しいんだ?」
ダグラスは気軽に請合った。「そんな暇あるか!」と一蹴されるかと思っていたエリーには意外だったが、これも美味しいチーズケーキのご利益に違いない。
「それにしてもさあ――」
エリーはさりげなく話題を誘導する。
「最近になって、急にネズミが出始めるなんて、変だと思わない? だって、陛下は昔からカーテローゼ様やリューネ様がこしらえたお菓子を、同じように召し上がっていらしたんだよ。なのに、どうしてわたしのお菓子ばっかり盗られるんだろう」
「そりゃ、まあ――」
ダグラスは腕組みをする。
「おまえのお菓子が、ネズミ好みの味だからじゃねえか?」
「あ、ひっどーい! 陛下だって美味しいって言ってくださってるのに」
「さもなければ、最近になって、急にネズミが増えたかだな」
「もう、いいよ。ダグラスに聞いたわたしがバカだった」
すねたように言ったエリーはダグラスに向き直る。
「ねえ、ダグラス。夜になってから、陛下が急用で呼び出されることって、多いの?」
「ああ、まあな。夜になってから早馬が着くこともあるし、他にも――いろいろなルートで、緊急の情報が入ってくるからな。時期によって多少は違うが、3日か4日に一度はあるんじゃねえか。それはヴィント陛下の頃から、変わってないと思うぜ」
「ふうん、そうなんだ・・・」
エリーは内心がっかりした。なんらかの工作がなされているのではないかと疑っていたのだが、今の話を聞く限りでは、お菓子が盗まれるようになってから国王が呼び出される回数が増えたというような事実はない。
「ダグラスも、陛下を呼びに来ることはあるの?」
「ああ、あるぜ。けっこう回数は多い方じゃないかな。シグザール城のこの階には、普通の衛兵や平の騎士は立ち入れないことになっている。まあ、メイドのおまえは例外ってこった。それ以外でここに出入りできるのは、聖騎士か、それ以上の階級の幹部だけなんだ。だから、緊急の用事がある時には、たまたま隊長やウルリッヒのおっさんの近くにいた聖騎士が使いに出されるってわけだ」
「じゃあ、聖騎士が近くにいなかったら?」
「その時は、隊長やらシスカさんやらゲマイナーのおっさんが、直接呼びに来るさ。それが決まりなんだからな」
「ふうん、厳しいんだね」
「そりゃそうだ。許可を受けてないやつがうろうろしているのを見つかったら、始末書どころの騒ぎじゃなくなる」
「ねえ、10月1日に初めて陛下のチーズケーキがなくなった時に――」
エリーが言いかけると、フローベル教会の夕刻の鐘が鳴り渡った。
ダグラスが、不意に何かを思い出したかのように真顔になる。
「いけねえ、点呼の時間だ。悪い、エリー、行かなきゃならねえ」
「あ、ダグラス、最後にひとつだけ!」
出て行こうとするダグラスに、エリーが声をかける。
「昨日の夜、ダグラスはどこにいたの?」
「ああ? 昨日は夕方から夜中近くまで、分隊の夜間訓練で北の荒地へ行っていたよ」
ダグラスの答えが聞こえたのは、既にドアの外からだった。どたばたと階段を駆け下りていく足音が遠ざかっていく。
エリーはあらためてほっと息をついた。これで、昨夜のクランツ盗難事件についても、ダグラスのアリバイは完璧ということになる(後でダグラス分隊の騎士に尋ねて回って、このことは裏付けられた)。
それに、ダグラスの話からは、いくつかの収穫も得られた。
エリーはブドウ入りチーズケーキを箱に詰め、厨房へ降りてフランツに手渡す。夕食を済ませると、今夜は事件が起こりませんようにと祈りつつ、シスカが待つ執務室へ向かった。
一日の業務報告の中では、昼間の蒸気風呂覗き見事件についても正直に報告した。ゲマイナーは黙っていると約束してくれたが、どこから話が漏れるとも限らない。ならば、よそからシスカの耳に入る前に告白しておいた方がいいと判断したのだ。もちろん、盗難事件の捜査については伏せ、ゲマイナーに言った通りの内容を繰り返す。
それを聞くと、シスカはにっこりと意味ありげな笑みを浮かべた。
「そう、そんなことがあったの。――それでは予定を変更して、今日は特別な実習をすることにしましょう」
「はい? 何でしょう?」
「今日の授業の主題は『始末書の書き方』にします」
「え、そんなあ――」
「今日の報告を聞いた限りでは、今後、そうしなければならない機会が、あなたには多くなりそうですからね」
「とほほ・・・」
その晩はブレドルフに急な呼び出しはかからず、チーズケーキ盗難事件も起こらなかった。翌朝、ブレドルフは上機嫌で、ブドウ入りチーズケーキに賞賛の言葉を口にしたのだった。

その後も数日間、何事もない日々が続いた。エリーはせっせと掃除やお菓子作りに励み、それ以上の熱心さで聞き込みに歩き回った。エンデルクやウルリッヒ、他の聖騎士たちにも、なにげない世間話を装って話しかける。ダグラスはエリーが何人もの男性と気軽に話すのを面白く思っていないようだったが、特に何も言わなかった。
夜の礼儀作法の授業も、シスカだけでなく何人かの講師が交代で現れた。
エリーは王室の実践的な礼儀作法をだんだんと身につけ、同時にノートは多くの情報で埋まって行った。
しかし、事件解決の鍵となるような重要な事実は浮かび上がっては来ない。また、これまでのところ、ブレドルフの控え室周辺に仕掛けたネズミ捕りにも、何もかかっていなかった。
今夜もウルリッヒの厳格な講義に神経をすり減らされ、エリーはくたくたになって部屋へ戻って来た。講義を受けている間、先日、金髪の聖騎士と一緒に覗き見た引き締まった身体が目の前にちらつき、集中できなかったことは秘密である。ぼんやりしていて何度かウルリッヒに注意されたが、まさかあなたのせいですとは言えない。
「はあああ、疲れたよぉ」
部屋へたどり着いたエリーは、メイド服を着替える元気もなく、ベッドへ倒れこんだ。このまま泥のように眠ってしまおうかとも思う。しかし、疲れているはずなのに頭は冴えてしまい、正体不明のお菓子泥棒の影が頭の中にちらついて、気分が落ち着かないことおびただしい。
エリーはベッドに寝そべったまま、ランプを引き寄せ、小型のノートを開いた。城へ来るまでは真っ白だったページは、今や様々な人から聞き込んだ話を書きとめた文字で、びっしりと埋め尽くされている。
エリーは、最初にチーズケーキが盗まれた10月1日から、特製クランツが盗難に遭った11月17日まで、事件が起こったすべての日の関係者の行動と所在を、わかっている限りでまとめてみた。
エリーのノートに記された一覧表は、次のようなものだった。

日付盗まれたもの人物A人物B人物C
10月 1日チーズケーキダグラスエンデルクウルリッヒ、ゲマイナー
10月 3日ワッフルダグラスウルリッヒシスカ
10月 5日アップルパイダグラスゲマイナーウルリッヒ、エンデルク、ダグラス
10月 9日ガラクトースエンデルクウルリッヒエンデルク
10月13日クランツシスカゲマイナーシスカ
10月17日クランツアウグストエンデルクウルリッヒ
10月20日マシュマロウルリッヒゲマイナーウルリッヒ
10月22日ウアラップナイトハルトウルリッヒシスカ
10月27日ウアラップエンデルクゲマイナーエンデルク
11月 3日マシュマロアウグストシスカウルリッヒ、ゲマイナー
11月 5日クランツダグラスエンデルクウルリッヒ
11月12日ウアラップシスカウルリッヒゲマイナー、シスカ
11月17日クランツ金髪の聖騎士ウルリッヒエンデルク

「人物A」は実際にブレドルフを呼びに来た人物、「人物B」はブレドルフに急用があった人物、「人物C」は「人物B」がブレドルフと話をする際に同席していた人物である。「人物C」の中に「人物A」と記された人物が混じっていることがあるが、それは呼びに来た人物がブレドルフに同行し、そのまま打合せにも同席したという意味だ。例えば、10月5日の場合、ゲマイナーの用事でダグラスが国王を呼びに来て、そのまま同行して会議室へ入り、ブレドルフ、ゲマイナー、ウルリッヒ、エンデルク、ダグラスの5人で打合せをしたということになる。
なお、「人物A」の中にアウグストとナイトハルトという見慣れない名があるが、ふたりともダグラスの同僚の聖騎士である。ダグラスと同様に分隊長を務めており、信頼できる人物だそうだ。実際に会って話をしても、そのことは裏付けられた。
あらためて、エリーは表を見直す。
なにか規則性があるのではないかと思って、様々な角度からながめてみるが、特にこれといって目を引く特徴はない。最初の3回、続けてダグラスが呼びに来ているのが目立つが、第一分隊長として常にエンデルクやウルリッヒの近くに控えている立場を考えれば、それほどおかしなことではない。第一、その後ほぼ一ヶ月間、ダグラスはエリーと一緒に東の台地に出かけており、城を留守にしている。その間も盗難事件は起こり続けているのだ。犯人のはずがない。
では、他にどのような容疑者がいるというのだろうか。
ブレドルフが夜食にお菓子を食べるという習慣を知っているのは、国王の家族を除き、シグザールを支える幹部のエンデルク、ウルリッヒ、ゲマイナー、シスカ――そして、分隊長クラスの聖騎士だけだという。第一の容疑者としては、これらの人物を挙げるべきだろう。
しかし、幹部の4人について言えば、容疑は晴らさざるを得ない。つまり、この表で「人物B」と「人物C」に挙げられている人物は、犯行が行われた時間にはブレドルフと同席していたわけだから、完全なアリバイがあることになる。やはり、未知の何者かが、ひそかに犯行を重ねているのだろうか。
「う〜ん、わかんないなあ」
薄暗いランプの灯りで細かい字を追っていたため、目がちかちかしてきた。目を休めようと、エリーは起き上がって窓の外をながめる。月の位置から考えると、もう真夜中を回っているようだ。エリーが昼にメイクしたベッドで、ブレドルフも眠りについていることだろう。
「いけない、そろそろ着替えて寝なくちゃ」
ヘッドドレスをはずし、襟元のリボンをほどいた時、その音は聞こえた。
「――!?」
外の廊下から、ゆっくりとなにかを引きずるような、かすかな音が聞こえてくる。
「何だろう?」
何か用があって、ブレドルフが起き出して来たのだろうか。リューネ王妃がドムハイトへ里帰りしているので、城のこの一画に住んでいるのはブレドルフだけだ。ブレドルフの両親――ヴィント前国王とカーテローゼ前王妃の寝室は、通廊でつながっている城の反対側の翼にある。
相手がブレドルフなら、メイドとしてなにか手伝えることがないか尋ねなければならない。そして、ブレドルフでないとすれば――それは、怪しい侵入者に他ならない。いつもお菓子を盗んでいた曲者が、違う時間に現れたのかも知れないのだ。だとすれば、これまでとは別の意図を持ってやって来たのかもしれない。
武器があれば・・・と、エリーはシスカに没収された魔法アイテムのことを悔やんだ。杖も、工房へ置いてきてしまっている。
だが、エリーは度胸を決めた。これまで、何度となく危険を冒し、それを乗り切ってきたではないか。ましてや、ここはエアフォルクの塔でもヴィラント山でもない。いざとなれば、大声を出せば警固の騎士隊が飛んでくるはずだ。
左手でランプを掲げ、モカパウダーの入ったガラス瓶をポケットにしのばせる。相手の顔にぶちまければ、モカパウダーも目つぶし程度の役には立つはずだ。
ドアをそろそろと開け、身をかがめてそっと顔を突き出す。
廊下は薄暗く、そこここに闇がわだかまっているように感じる。ところどころにある窓から外の星明りが差し込んでいるが、それ以外の場所は、目を凝らしてもよく見えない。
ドアを開けたことで、廊下の物音ははっきりと聞こえるようになった。
エリーは神経を集中して、耳をそばだてる。
――これは、足音だ。すり足で、ゆっくりと足を運んでいる。だが、意識的に足音を忍ばせているような気配は感じられない。
エリーは、思い切ってランプを掲げながら、一気に前方へ進み出た。
「どなたですか、そこにいらっしゃるのは?」
シスカの教育の成果か、つい礼儀正しく呼びかけてしまう。
ランプの光の中に、ひとつの小柄な人影が浮かび上がった。
「へ?」
一瞬、妖精族の長老が歩いてきたのかと思う。その人物は、妖精が着ているような、足元まである長いゆったりとした服をまとい、頭にも妖精がかぶっているようなだぶだぶの帽子を載せている。そして、妖精の長老と同じく、顔の下半分は真っ白なひげにおおわれている。
急にランプの光を向けられたためか、相手はしょぼしょぼとした目をしばたたいた。
「何じゃ?」
「あ、あの・・・」
エリーはあっけにとられて、相手をまじまじと見つめた。数年前まで、何度となく玉座に座った姿を目にし、言葉も交わしている。だが、寝巻を着てナイトキャップをかぶったヴィント前国王を見るのは初めてのことだった。しかも、このような真夜中に、こんな場所で――。
「ヴィント陛下・・・」
ヴィントは目をぱちぱちさせ、エリーの姿を認めると、平板な口調で言った。
「おお、アリスか、探したぞ。わしの夕食は・・・」
その時、ヴィントの背後に灯りが見え、女性の鋭い声が響いた。
「ヴィント陛下!」
「へ?」
エリーが目を凝らす。廊下の暗がりから姿を現したのは、平服姿のシスカだった。険しい表情を浮かべて、つかつかと近付いてくる。
「シスカさん――」
声をかけたエリーを無視して、シスカは身をかがめ、穏やかにヴィントに話しかける。
「陛下、こんなところにいらしたのですか。さあ、寝室に戻りましょう」
「うむ?」
ヴィントはのろのろとシスカを振り向き、不自然に平板な口調で言う。まるで、へたな役者が芝居のセリフを棒読みしているかのようだ。
「シスカか・・・。おまえさん、しばらく見んうちに、老けたのう」
「何をおっしゃいます。昨日もお目にかかったばかりではありませんか」
「いや、わしは夕食がまだでの・・・」
「わかりました、わかりましたから、ご一緒にいらしてください」
肩を抱くようにして、向きを変えさせる。
口もきけずに見ていたエリーは、ようやく我に返り、手伝おうと進み出た。
「あの、シスカさん・・・」
シスカは、激怒した時のイングリドを思わせる目つきで、エリーをにらんだ。その迫力に、エリーは凍りつく。
「エルフィール。あなたは今夜、何も見なかった。深夜に廊下にも出て来なかった。ベッドでぐっすり眠っていた。いいわね」
「ええと・・・」
「“ええと”は不要と言ったはず。これはシグザールの国家存亡にかかわることなの。他言無用。これ以上は言わせないで」
きっぱりと言うと、シスカはくるりと背を向け、もごもごと口の中でつぶやいているヴィントになだめるように話しかけながら、一緒に廊下を去っていく。
エリーは茫然と見送っていた。
部屋へ戻っても、たった今、目にした光景が脳裏を去らない。
ヴィント前国王に、何が起こったというのか。単に寝ぼけていたというには、あまりにも異常すぎる。 エリーの姿を見たヴィントは、「アリス」と呼びかけた。その名は初日にシスカから聞いたことがある。ブレドルフが結婚する前に、王室付きメイドとして仕えていた女性の名前だ。推測だが、アリスはヴィントの身の回りの世話もしていたのだろう。
だが、先ほどヴィントは、1年以上も前に辞めてしまったメイドの名前を呼んだのだ。また、シスカに対しても、長いこと会っていなかったかのような言葉を発していた。しかも、その言葉も感情がこもらず、ぼんやりとしたもので、自分が言っていることを正しく認識しているようには見えなかった。
「まさか――!?」
エリーは大きく目を見開いた。
あのような言動をする年寄りを、『職人通り』で何度も目にしたことがある。
日がな一日、店先に座り、通りかかる人にだれ彼構わず声をかけて、同じ昔話を延々と繰り返し話して聞かせる老人。真夜中に家を抜け出してはふらふらとさまよい歩き、町内会総出で探して歩かなければならないという老女。工房を訪ねてきたおかみさんに、老人ボケを治す薬はないかと真剣に頼まれたこともある。
ブレドルフは、ヴィント前国王が高齢のため体調を崩していると話していた。だが、その症状はもっと深刻なものだったのではないか。引退したとはいえ、前国王が是非の判断もできない精神状態になっていると他国に知られてしまったら、外交的にも問題になるだろう。だから、シスカは国家の存亡にかかわることだと言ったのではないか。
「ああ、どうしよう!」
エリーは頭を抱えた。
もしも、最近になって症状が進んでしまったヴィントが、今夜のような徘徊を何度も繰り返していたとしたら――。そして、誰もいないブレドルフの部屋で、美味しそうなお菓子が皿に載っているのを見つけたとしたら――。
「どうしよう――。こんなこと、ブレドルフ陛下に言えないよ・・・」
決定的な証拠があるわけではない。だが、この推理は限りなく真実に近いのではないかという気がする。
「どうしよう・・・。どうしよう・・・」
エリーは夜明けまでまんじりともできなかった。

ほんのわずかなきっかけから、もつれた紐がするすると解けることもある。
どうすべきか決断がつかず、暗い一日を過ごしていたエリーは、夜の礼儀作法の講義の際も元気がなかった。それに気付いた講師が、ハードな仕事で疲れたメイドを元気付けようと、お茶でも飲みに来ないかと誘ってくれたのである。
翌日の昼、ブレドルフとシスカに外出許可を得たエリーは、昨夜の講師を務めた優しい貴族のご婦人、ヘートヴィッヒの屋敷へと出かけていった。


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