《学校で 勉強したこと 役立たず》

 学校とはその字が示すように学ぶところです。決して教えるところではありません。玄関の近くに職員室や校長室がありますが,この構造の不自然さが教える所という錯覚を生み出しているのかもしれません。
 大人になるまでにいくつかの学校に通って勉強しますが,いわゆる読み書きそろばん以外は,大人になって役に立ったというものはそれほど思い当たりません。学校で覚えたことは試験が終われば忘れてしまっても,それほど後悔はしません。ですから勉強に嫌気がさした子どもから,「勉強して何の役に立つのか」と問われても,答えに窮します。大人の仕事と同じでしなければならないものという,わけの分からない理由を持ち出します。
 原野に鉄道を敷くのが開拓の一つの姿でした。鉄道ができるまではたいへんな作業が続きます。できてしまえば工事に使った機械器具は片づけられ,鉄道だけが残ります。鉄道それ自体はただの道で何の機能も持ちません。しかし汽車が必要なときに走ることができます。普段は汽車の時刻を意識して鉄道のことは忘れていますが,災害などで不通になれば途端に思い知らされます。
 学校で勉強するのは頭の中に道を作る営みです。作るための教材という道具は片づけてしまう,つまり忘れていいのです。いつまでも覚えていれば邪魔になります。いろんなことを学んで,道が縦横無尽にできていれば,どのようにでも利用できます。道路のことを忘れているように,学んだことによってできた頭の中の道路網を意識していないだけです。

(リビング北九州掲載用原稿:96年11月)