《さあ済んだ それがつながり 切っていく》

 休日の朝,私は掃除機を家中引きずり回し,連れ合いは水周りの掃除をします。空き缶や空き瓶がたまると,分別する仕事が加わります。缶の中身が入っていると,つぶすときによけいな手間がかかり,また瓶のフタははずしておいてくれてもいいのにと,ぶつぶつ言いながら片付けています。古新聞は子ども会が回収するので,新聞とチラシに分けてためておきます。
 子どもに手伝いをさせることが勧められています。手伝いには2種類あります。たとえば,夕食前の買い物や配膳などは,手伝う本人にも直接関わっていることですから,しても損したとは思いません。ところが,食事が済んだ後,かたづけの手伝いになると,自分には何の利もないので,して損したという思いだけが残ります。この片づけの手伝いが子どもに身につけてほしいものです。
 庭の掃除を子どもと一緒にします。「きれいになったね」という快感を一緒に味わうことが必要ですが,それだけでは十分ではありません。きれいになった庭に花の種を蒔いておくことで,何かが始まります。片づけとは次への始まりです。
 親が社会で仕事を済ませるとき,次の人の手にスムースに流れるように気配りをします。自分の担当が単に済んだというのではなく,次の人に確実に優しく受け継がれるように,次の手順まで少し踏み込んでいるはずです。
 「自分の担当が済んだ」,それがやりっぱなしの原因です。子どもに部屋を片づけさせると,なんでもいっしょくたに放り込んでしまいます。次に使うときの用意ができていません。済んだということは,次を始める用意が整ったことです。

(リビング北九州掲載用原稿:97年4月-2)