《抱っこより おんぶが似合う 父の背な》

 次男が小学3年生の頃、犬を飼いたいと言ってきました。通学路の途中にある友達の家で子犬が生まれ、数日前から「かわいいよ」と話していましたから、いつかは言ってくるだろうと思っていました。私も子どものころ、いろんな犬と暮らし遊んだことがあったので、自分で面倒をみることを条件に許しました。
 連れ合いも生まれたばかりの子犬にミルクを与えているうちに、すっかりのめり込んでしまって、買い物に出掛けるときには自転車のカゴに乗せてまわっていました。次男を呼ぶのに、つい「レオ」と、犬の名前を呼んで、次男がむくれることもあったほどです。
 早起きのレオに「ワン」と急き立てられ、暮れてくると「ワン」と催促されて、家族の誰彼が散歩に駆り出される毎日でした。三男坊としてわがままなレオも、雷は苦手で小屋を飛び出し「クーン」と雨に濡れそぼってしまいます。家の中に入れてやると、さっと2階まで駆け上がって次男のベッドの下に潜り込んでいました。
 時が過ぎ、レオは次男の手になでられながら死んでいきました。次男も連れ合いも、もう犬は飼わないと言います。ある日、「車にひかれた犬がいたから、埋めてやった」と帰って来た次男に、「いまごろレオが遊んでやっているわよ」と連れ合いが感慨深げに語っていました。
 家族は互いに向き合うのではなく、何か共通なものに一緒に向かうことが大事なようです。レオに向くことで、思いを共有することができています。ふれあいも抱っこではなくおんぶの態勢の方が子どもには前向きのように思えます。父親の背中を見て育つとは、父親と同じ方向を向くことなのです。

(リビング北九州掲載用原稿:97年5月-2)