《お化けなど いるわけないと 心閉じ》

 小さいころ、夜中に便所に行くと、下から毛むくじゃらの手が伸びてきそうで,恐かったものです。水洗になり明るくなった便所を、今の子どもたちは恐がることはありません。お化けなどいるわけはないと、自信満々言いきります。
 世間には○○化というお化けがたくさんいます。高齢化は高齢に、国際化は国際的に「成っていく」ということなのでしょう。しかしお化けは成仏できない、すなわち仏に「成れない」ものを言い、あくまでも中途半端なものです。このお化け論理によれば、情報化とは情に報いようとしても成れないことを表します。半分は冗談ですが、半分は本気です。お化けなどいるわけがないと思っている大人が、○○化というお化けを大まじめに語っているのは、奇妙なジョークです。
 子どもたちに抽象的なものの存在を確信させるきっかけが、お化けの存在でした。得たいの知れない不気味なものがあるという刷り込みができたとき、そのバランサーとして親による温かな慈愛を受け入れてきました。お化けはいると信じた経験があるものだけが、思いやりという訳の分からないものを信じられるのです。
 幽霊の正体見たり枯れ尾花。お化けは闇に映し出された人間の心であると考えれば、思いやりは光に誘われ出た人間の心です。心の裏表と言ってもいいでしょう。お化けの存在を否定することは心のバランスを奪い、心の窓を封じ込めてしまうことになります。
 おとぎ話にはよくよく考えれば、かなり残酷な内容のものがあります。赤頭巾ちゃんのおばあさんは狼に食べられてしまいます。心の闇を疑似体験させることが、子どもの心から光を引き出す仕掛けだったのではないかと思います。

(リビング北九州掲載用原稿:97年7月-2)