《意味不祥 それが学びの 足を引く》

 テレビ番組の刑事コロンボは「うちのカミさん」と呼びますが,この欄で私は連れ合いと呼んでいます。連れ合いとはある人の配偶者のことであり,夫婦の一方が第三者に対して他方を呼ぶ称だそうです。愛を連れているからつれあいと呼び,愛がなければつれない仲とだじゃれを飛ばすこともあります。
 日常語の中にカタカナ語が侵入し,言葉のイメージが崩れかけています。年配の人はセクハラと聞くと「腹がせく」と思ってしまうことがあるそうです。カタカナ語には意味をうかがえるような手掛かりがないからです。例えば自信という字を見れば自分を信じることと分かります。言葉は意味のイメージを喚起するものです。その延長上に麻薬と薬呼ばわりするからいけないんで,麻毒と呼んではという発想が可能になります。
 この意味を問うことは何も言葉だけに限りません。コロンボの捜査では動機を見つけることが重要なポイントです。動機とは犯罪行為の意味です。
 小学校の算数では分数が多くの子どもにとって最初の難関です。分数の足し算は通分という手続きが必要です。計算は単純に分母の数を互いに掛け合わせればできます。手続きを覚えてしまえばさしあたって困ることはありません。しかし,通分の仕方を知ってはいても,なぜ通分しなければならないのかという意味を納得するところまで至っていないと,計算をしていても自分で何をしているか分かりません。納得していないとおもしろくないので,算数が嫌いになっていきます。
 学びのおもしろさは,自分の学んでいることの内容についてその意味が分かるところから生まれます。教えるポイントは意味を明らかにすることです。

(リビング北九州掲載用原稿:98年4月-1)