《今日学べ 明日には明日の 学びあり》

 連れ合いは勤め帰りに途中の大型スーパーで食料品を買い入れて来ます。レジを済ませて袋詰めするときに,肉類などのトレー入りの食品はカウンターに用意されている薄手のビニール袋に中味を詰め替えて,トレーは回収箱に返しています。それを見ていたご婦人が「わあ,アタマいい。私もまねしよう」と話しかけてくるそうです。連れ合いは買い物の後にバスに乗るので,手提げ袋がなるべくかさ張らないようにと苦肉の策だったようです。その出来事を話してくれるとき,連れ合いは人様に感心されるほどのことではないのにと前置きをしながら,同じ思いをしている人がいることに気づき,役に立ったことがうれしそうでした。
 「まなぶ」という言葉は「まねる」から派生したそうです。問題意識を抱えているとき,ふっと目にした他人の光景に解決の糸口を見つけ,まねをしてみる。それが学びのホップです。徒弟制度の時代に教えてくれない親方から弟子が技を盗むことができたのは,見様見真似をするという学習法のお陰でした。教えてくれないからまねをせざるを得なかったということです。
 ところで現在のように学校でも社会でも教えてあげるという態勢が整ってきたのに,逆に学びに背を向けてしまうのはなぜなのでしょうか。いつでもどこでも学ぼうと思えば学べるという事態が意欲を減退させるのではないでしょうか。自分の住んでいる街の名所旧跡はいつでも行けると思うから行きませんが,めったに訪れることはないよその土地ではしっかりと観光をします。人の意欲とはへそ曲がりなものです。
 学びを実践する方便は「今しか学べない」という自覚です。そのうちまとめて学べばよいと先送りしたとき,学びは涸れ果てます。

(リビング北九州掲載用原稿:98年5月-1)