《銭拾い ねこばばすれば 落ち着かず》

 夕食時の語らいの中でだじゃれをとばすことがあります。連れ合いは間がありますが,とにかく反応してくれます。子どもたちはオジンのしゃれにはついていけないと耳にとめてもくれません。こうして私のだじゃれは封じられています。
 子どもの悪さを封じるにはいくつかのステップがあります。悪さを注意するとき「お巡りさんに捕まるから」とか,「おじさんが叱るから」と脅すことがあります。そういう言い方をする親が非難される場合があります。本当に非難されるべきことなのでしょうか。たとえ不十分な理由であっても悪さをしなくなれば用は足りています。大人でさえスピード違反や飲酒運転を控えるのはお巡りさんに捕まると嫌だからと思っているところがあります。肝心なことは悪さが防止できればいいのです。恐らく人のせいにすることが卑怯な印象を与えるのでしょう。しかし,子どもの周りに悪さを叱る恐い大人がいると思わせることは,黄色信号として必要なことです。
 次に考えておかねばならないことは,「捕まらなければ」と世間を甘くみて悪さをしてしまう者を止める十分な手だてです。ルールの目から逃げようとする甘えは,自分で断ち切るしか策はありません。それには悪いことをしたら気分が悪くなるという体験が大切です。叱られるとムカッとしますが,その繰り返しが悪いことをすれば不快になるという条件反射となって身に付きます。この赤信号を身につけることが叱るしつけの目的です。自分の行動が身近な人に受け入れられるかどうか,その日常的なつき合いの中での判定が自分を導く善悪尺度になります。
 私の下手なだじゃれが封じられているのは,子どもたちからのしつけです。

(リビング北九州掲載用原稿:98年8月-2)