《句読点 付け間違いは 意味不明》

 言葉は句読点の付け方で意味が変化します。例えば,「よこはまたそがれ」の「は」の後,「まぶたのはは」の「ま」の後に句点をつけると,下品なお笑いのタネになります。物事の考え方にも適切な句読点をつけないと,間違った結論を引き出しかねません。
 地域行事を評して「参加しても面白くない」とか,「こんな手抜かりがあった」と非難する会話が聞こえてきます。このようなあら探しは自分が欠席しているいいわけに過ぎません。たとえ不備があっても一言教えてあげれば済むことなのに黙っていて放置し,揚げ足を取ります。また,つきあいだからと参加しても「お呼びでないという雰囲気だから」という不満も出ます。お客さんとしての参加をしていては,いつまでたっても自主性の進歩はありません。行事のやり方を少し変えたらと言いながら,自分は無関係な立場から出てこようとしません。
 批判の後には句点があり,提案がなされて読点が付けられます。語尾が消えてしまう話し方が問題視されますが,考え方も句点止まりで未完成です。
 子どもをしつけるときに「歯を磨かないと虫歯になるから」とか,「勉強しないと将来困るから」と言うことがありますが,これは言葉として句点で終わらせる強迫です。「きれいになって気持ちがいいでしょう」とか,「分かればおもしろいね」と結論を明確にする読点までしっかりと言い切ってほしいものです。
 和歌の下の句は「けり」で終わり読点が付きますが,後に派生した上の句だけの俳句では句点止まりです。文芸としての深みや広がりを極める便法です。ただ人間関係ではやはりきちんとけりを付ける方がすれ違いが少なくなります。

(リビング北九州掲載用原稿:98年11月-1)