《連れ合いの 声聞き流し 叱られる》

 何年ぶりでしょうか不覚にも風邪をひいて,寝込んでしまいました。独りぽっちの昼食後に薬を飲んで,ぼんやりとテレビを見ていたときです。妙なことが気になりました。インタビューの会話が画面の下に文字で表示されているのです。十分に聞き取れるのに,わざわざ文字化される意図があいまいです。視聴者の聴覚への信頼がなくなっているのか,最近の人の話し方は聞き取りにくくなっているというのか,送り手の判断が分かりません。どうも視覚偏重になっているような気がします。言葉が聞くものから見るものに変質させられています。聞こえない方への配慮なら,早とちりですが。
 そういえば詩人が自分の書いた詩を朗読しているときに,詩の中の漢字を読めなかったという話を聞いたことがあります。本を読んでいるときに見知っている漢字なのに読めずに飛ばしてしまうという経験をすることがあります。字形を見れば読めなくても意味はおおよそ分かるので,さほど印象に残っていないだけです。読むべき言葉が見るだけのものになっています。
 人の話を聞き取る力も弱まってきています。連れ合いの予定を確かめようとすると,「私の話は聞いていないんだから」と切り返されます。とっくに話しているというわけです。そう言われれば確かにそうで,聞いたような気がしたから確認したつもりなのです。きちんとメモリーしていなかったことが行き違いの原因です。聞いたことと覚えていることとの間には段差がありますが,それは連れ合いの声への関心が薄れていたことのようです。
 言葉から音声が消え,人のぬくもりが途切れていきます。情報機器のおかげで文字はきれいになりましたが,肉筆とか肉声が醸し出すその人らしさという情報が捨てられています。

(リビング北九州掲載用原稿:99年1月-2)