《疲れても いたわりあれば がんばれる》

 小説やドラマの世界では予想外の結果が「面白い」ともてはやされます。落語のオチやなぞなぞのココロも同じです。ありさんはどうしていつも裸なんでしょう。そのわけは「ありのままに生きているから」という他愛のないなぞを紹介すると,学生は喜びます。思いがけないところにスキップしながらも,関係の糸はピンと張っているという緊張感を楽しみます。仮想(ヴァーチャル)世界では面白がられる予見できない展開も,現実(リアル)世界では忌避されます。
 印籠が目にはいると安心しますが,予定通りの決着は天下太平過ぎて,若者には面白くないようです。十年一日のごとき日々凡々,凡人には凡日が似合っていますが,退屈するのは世の習いです。だからといってスリルを求めてギャンブルにのめり込んでも,挙げ句は馬鹿を見てしまいます。禁断の箱を開けてみて身も心も震えたところで白髪の老人になって目が覚めるのがおとぎ話です。
 日常生活では突発的な予想外の用件,急病,通勤途上の渋滞などによる遅れ,手違いによる段取りのすれ違い,うっかり失念,すべって転んで,後始末は右往左往,予定通りに運ばない浮き世のじれったさが恨めしくなることがあります。そんなあれこれをまるごと飲み込んでいるのがパパです。終わりよければすべてよしとは,密やかな願望なのです。
 家庭では小さな豆台風が母親の予定をズタズタに引き裂きます。いっそいなくなればと悪魔がささやきますが,それを即座に却下して耐えています。だからこそ親は親として一回り大きくなれるんですよと持ち上げられても,毎日では疲れ果てます。本当に疲れるね,連れ合いへのいたわりはその言葉から始まります。

(リビング北九州掲載用原稿:99年6月-2)