《星仰ぎ 小さな自分の いのち見え》

 小学生の頃,星に興味を持ち天文関係の子ども向け啓蒙書を読みあさった時期がありました。夜空に仰ぎ見る星の光は万年単位の過去の光であることを知り,自分の一生がいくつあっても足りないとてつもない大きさを感じたとき,小さな星の小さな国の小さな田舎の小さな家に生きている自分が頼りなく思えたものです。それは恐怖に近いものでした。そのちっぽけな人間がなぜ憎み合うようなことをするのか,星に比べれば一瞬の命をどうして大事にしないのか,漠然とそんなことを考えていました。星空のような悠久の世界に遊ぶと自分が小さな人間に見えます。一方で目の前を飛んでいるトンボはひと夏で姿を消していきます。自然の前ではどうしてもはかなさのようなものを感じざるをえません。
 しかし,トンボは卵を産み生命をけなげに残しています。虫や花の世代交代を目の当たりにすると,親は子どもを残すために生きているようにも思えます。はかないかもしれませんが,自分は生命の鎖の一つであり,決して無価値な存在ではないんだという救いが見えてきます。
 子どもを子宝と思い,祖父母が孫を慈しむ背景には,自分が次世代につながっている証を実感できるという理由があります。ところが今,少子化の中で小学校は統廃合されています。子どもたちが消えていく地域には次世代がいないために,明日が感じられません。
 貧しい環境では多産によって生存率を上げるために母乳がよく出るという報告があるそうです。豊かな環境になってこの危機本能が逆向きの異常動作を起こして,生命の連鎖本能までが閉塞されているようです。自分のことしか考えなくなる豊かさの麻薬におぼれ,社会組織が末期症状を呈してきたのでなければいいのですが。

(リビング北九州掲載用原稿:99年8月-2)