《見てもらう 気配り込めて 拍手くる》

 連れ合いが今年度支部長を務めている団体が,町の文化祭に参加しました。支部からの参加として,班長さんたちとともに歌謡曲による踊りを披露することになりました。連れ合いは身体を動かすことの好きな体育会系ですが,踊りは苦手のようで練習に長い時間をかけていました。高見の見物を決め込んでいましたが,当日青年団員の司会により紹介されるナレーションの文案作成を押しつけられました。音読にたえる文章はこれまで手がけたことはありませんでした。書けないと言うのもしゃくなので,何となくあいまいに引き受けておいて,調子のよい文章を記憶から引き出してみました。祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり…という一節が思い浮かびました。七五調で書けば何とかなるはずです。出来映えはまあまあだったようです。
 また文化祭には福岡県無形民俗文化財である今津人形芝居保存会も招かれ,子ども組による傾城阿波鳴門の八段目巡礼歌の段と,保存会による伊達娘恋緋鹿子八百屋お七の六段目火の見櫓の段が公演されました。子どもたちだけの人形操り,浄瑠璃,三味線による一幕には,よくもここまで仕込んだものと感心しました。指導者の根気と子どもたちのがんばりが,芝居の心地よい迫力に結実していました。子どものひたむきさとはいいものです。
 連れ合いの素人踊り,保存会の伝統芝居に限らず,表現されたものには,汗の時間が凝縮されています。どんな形であれ表現の苦労を味わった者はその深みに心を向けることでしょう。上手か下手かという鑑賞ではなくて,共感できるかどうかの一点を大切にしたいものです。コミュニケーションとはコムニカーレ,共有することです。目くらましで気を引くような表現には味わいがありませんが,それは共感をベースにしていないからです。そう思いませんか?

(リビング北九州掲載用原稿:99年11月-2)