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連れ合いはお酒が飲めないのに,おつまみは好きです。海のそばで育ったからでしょう。下戸の息子も同じように好きで,連れ合いが自分のために買っておいたおやつをこっそり食べてしまいます。食べ物の恨みは強く,見つからないように隠しているようです。
母親は自分が生んだという絶対の自信があり,子どもが自分の思い通りにならないことなど,想像すらしません。子どもの自立は母親離れから始まりますが,それは反抗という形で現れます。まるで母親を困らせようとしているかのようです。キレかかっている母子をアフターケアする苦労を経験することで,父親は親になっていきます。父親は子どもに対して母親のような本能的自信を持てません。母親の産みの苦しみを父親は育ての場で体験しなければならないのでしょう。
子どもが巣立つときには,まず産みの親である母親を超えて,次に育ての親である父親を超えていきます。厳父慈母というイメージはスクラップになっていますが,新しいビルドを忘れています。少なくとも父親のあり方が明確なイメージを持てないままです。父親は友だちでも遊び相手でもスポンサーでもありません。
子どもが求めているのは,親らしい親です。子どもは母親を産みの親として認めます。それでは父親の親らしさとは何でしょう。育ての親になるしかありません。あなたは私が育てた子どもであると思えるとき,父親は育ての陣痛を超え,我が子の親としての自信を持つことができます。
子育てすべてを母親が背負わされると,優しい母親が恐いお母さん,素敵な奥さんが疲れた妻になります。それは父親として夫として悲しいことです。父親こそが育ての親,それが時代の求める,そして子どもが求める父親像です。
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