《余暇の字は 男の辞書に 載ってない》

 出張したとき,帰りまでの暇になった時間を利用して近くの観光地を訪ねると,そこは女性の園になっています。男性はほとんど見かけず,肩身の狭い思いをします。平日なのでおそらく男性は仕事なのでしょう。女性の余暇は誰が造り出したのかと,つくづく考え直さざるを得ません。
 子どもが小さい頃は休みになれば遊びや観光に引っ張り出され,子どもが親との同行を嫌がるようになると一人置いてきぼりをくってしまうのは,やりきれません。たまの出張の時ぐらい余暇を楽しもうと思っても,なんだか場違いな感じで落ち着けません。何でこうなるのでしょう。父親の権利を主張しなくてはなりません。
 自分が稼いだ給料からお小遣いを貰うのにも頭を下げ,タンスはいつの間にか連れ合いの服に占領され,疲れて帰っても自分の座る場所がなく,食事は子どもの好きなメニューに付き合わされて,それでも黙って耐えることが男だと思う誇りがあります。
 そんな親を見て育った子どもたちが,男は結婚したがっているのに,女は自由でいたいと独身願望です。これ以上何をお望みなのでしょうか。義理チョコなんていう屈辱を何の疑いもなく振る舞う無神経さは,してやっているというキュートな苦みがあります。男を踏みつけにするのもいい加減にしてほしいと秘かに願っています。
 長生きする性が短命な性を搾取する構図は,そろそろ終わりにしてほしいものです。20世紀は男性が電化という暮らしで女性を解放しました。21世紀は女性が男性を解放する番です。おそらく女性の寿命はお裾分けで短くなるでしょうが,寿命を同じにできたとき,両性の平等が実感できるはずです。
 ケネディが言いました。あなたは何がしてあげられるかと。

(リビング北九州掲載用原稿:00年3月-6)