*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【視座の取り方?】


 エコロジーや温暖化というキーワードによって,人は地球規模の視野を持つようになりました。社会生活においても国際化や情報化の進展に伴って,地球規模のつながりを実感しています。その地球ですが,惑星と呼ばれています。惑っている星とはどういうことでしょう。
 天体は決まった運動をしているので,惑いようはないはずです。星空を眺めていると,決まった時間の星の位置が日ごとに少しずつ動いていくように見えます。ところが,いくつかの星が逆に戻ったり,動きを止めてしまうことがあります。昔の人は,星がまるでどう動いたらいいのか惑っているようだと思いました。惑星と呼ばれる星が生まれたのです。中国では行星と呼ばれ,ギリシャ語では迷う人という意味のplanetsと呼ばれています。
 惑星の不思議な動きを説明しようとたくさん説が考え出されましたが,どれも成功しませんでした。その原因は天体が地球を中心に動いていると考えていたからです。この天動説から離れて地動説による天体の運行を考えると,うまく説明ができるようになりました。惑う星とは見かけでしかなくなったのです。自分中心の視座からは惑っているように見えても,もっと大きな世界の相対的視座から見ればすっきりと納得できることがあります。
 ドイツの哲学者エマニュエル・カントによる「あなたの意志を動かす原理が,同時に普遍的な立法の原理としてつねに適当であるように行為せよ」という言葉があります。私の意志を動かす原理は私の原理,普遍的な立法の原理とは私たちの原理です。自分中心の他動説と大勢の中での自動説による違いをどのように折り合わせるかが大事です。自然の原理は正誤の峻別が可能ですが,人の世の原理は善悪を単純に決めかねます。自分にとってよいことが皆にとってよいことと必ずしも一致しません。次善という妥協点が必要になります。
 19世紀のフランスの医学者であるクロード・ベルナールによる「芸術は私,科学は私たちである」という言葉があります。若者の理科離れがいわれていますが,その背景には,自分を大切にという私中心の意識のみが強くなって,私たち意識の低下があるように思われます。知恵を皆と共有する喜びが科学への意欲であるなら,科学精神の衰退は社会の衰退と軌を一にしていることになります。
 ネット社会の中で人はつながっているようにみえて,実のところは,個々の私意識が行きずりに隣り合わせているに過ぎないのかもしれません。それだけならまだいいのですが,傍若無人ということに過ぎて行くことがあるので要注意です。見ず知らずの人をも「私たち」に含めることのできる視座を持つことの大切さを訴える啓発が求められています。
 ディジタル思考を持ち込めば,自分が1で他者は0ということになります。それでは,社会という機構は成り立ちません。アナログ思考により,自他の関係を7分3分とか5分5分といった臨機応変な配分とすることが不可欠です。そのような視座を持つことによって,人はご縁があるという意識を持ち得ていたのです。
(2009年01月18日)