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【第1章】行動の黄色信号
1.2 悪の行動を封鎖するだけで十分でしょうか?
迷惑をかけないという黄色信号は,それを意識する者の意図によっては思わぬ副作用を引き起こしてしまうことがあります。交通信号の黄色は,安全ドライバーには「ここが止めどき」の合図ですが,先を急ぐドライバーには「まだ進める」の合図になります。それだけならまだしも,黄色で止まる安全運転の先行車を迷惑だと言い立てる理不尽さが伴うようになります。同じ副作用が心の黄色信号にも現れます。
一つは迷惑をかけなければ何をしてもいいという自己欲望の肥大化にすり替えられます。自由化という旗印が翻る中で,自己解放は無軌道,無節操,無節制といった欲望のバリアフリーに暴走している感があります。例えばいじめは本人から迷惑であるという訴えがない以上あくまでも遊びであると取り繕われています。人として冗談にも程があるという常識的な歯止めはなくて,たとえ脅迫によってであれ当事者本人から嫌だと拒まれない限りいじめ続けるという個別化も絡んでいます。人間一般という抽象的なイメージを持てないからです。
もう一つの副作用は迷惑をかけないように努力している自分を正当化するあまりに,迷惑をかける人を非難する傲慢さが吹き出すことがあります。いじめの場合,自分はいじめられないようにひょうきんさを装って努力しているのに,いじめられている友人は努力が足りないから仕方がない,いじめられる理由があると見放す卑怯さとなっていきます。
行動制止のための心の黄色信号が有名無実になっている点が問題です。さらに自転車盗においては,持ち主への迷惑すら気づかぬ振りをする甘えが見えています。他者を尊重する意識を欠落させることで欲望という名の牙がむき出しになり,制止の網目がズタズタに引き裂かれています。このように青少年の社会性に危うさが露呈してきた理由は,暮らしにおける行動基準が制止系だけに退化しているからです。欲望という激流を堤防だけで止めようとすることは不可能であると気づくべきでしょう。
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