*******  心 の 指 南  *******

〜育てよう ドウゾと言える 健やかさ〜

【第4章】ドウゾのしつけ
4.1 ギブのしつけがおろそかになった事情があったのでしょうか?
 しつけという概念を分けておくことが論を進めるうえで有効です。行動を個人的欲求の発露と環境状況の発露に分けて議論しました。しつけにも同様の分類が必要になります。個人的直接的である意図的なしつけと,環境状況からの間接的かつ無意図的なしつけです。前者は親や大人が社会システムの価値構造を意識的に教え込もうとすることです。後者は子どもが生活しながら知恵を自然に学び取ることであり,親の後ろ姿を見て育つことが対応します。ギブをしつけるには,ギブの価値を感動を伴った体験として直接教えようとする一方で,社会環境にあるギブ活動を子どもの身近に顕在化することによって学びを促す仕掛けを機能させるようにしなければなりません。
 まずギブを教えるために,ギブ行為の発現メカニズムをボランティア活動から解き明かしておきましょう。災害に遭った人々に温かい支援の手を差し出す若者たちがたくさんいました。明らかに困っている人を見たら,若者はギブ行為を発動します。このことからドウゾはアリガトウに誘い出されるものであり,陰陽の引き合いがあることが分かります。それを人は感動という気持ちで受け取っているのです。
 ところで,最近身のまわりに助けを必要としている人が見えにくくなっています。そのためにギブ行為が形を潜めてしまいました。子ども自身が養育という形で助けを必要とする存在として生活しているので,テイクの体験しかしていません。そこでしつけられている言葉は「アリガトウ」だけです。「ドウゾ」と言う機会が乏しくなっています。これではギブの感動を会得できるはずがありません。国際化や情報化の中で世界に目を向けるとギブのチャンスを生かしているボランティア活動が紹介されていますが,何がしてあげられるかという視点を日常的な活動にも定着することが望まれます。