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【第4章】ドウゾのしつけ
4.4 大人社会も修正することがあるのではないでしょうか?
次に,環境からの学びについて触れておかなければなりません。社会の発達が進むにつれて,高度化が必然となり分業という手法が採択されてきました。総体活動の効率追求は個別メンバーに専門化を強いてきました。分業した専門家は自己の領域を堅持し,他者の領域には不可侵の態度をとっています。化学に特化した若者が優秀な技量を発揮しても他者に害毒を与える不始末をしでかす事件がありましたが,自らの仕事の目的にギブ指向を課していなかったからです。専門領域の外につながっている他者の領域に不可侵であることは専門習熟の必須要件ではありますが,社会総体として分業化を統合する際に歪みを産み出す源になります。
例えば,家の前のゴミは行政による清掃専門の領分であると放置したり,街路樹は自分の木ではないから雨が降らずに萎れても無視するのが当たり前になっています。友達がいじめられていても見捨てる子どもは,自分の関わるべき領域を逸脱しているという閉鎖的判定法を学習しています。たとえ正義の扉の鍵を持っていても,使おうとする勇気が封鎖されてしまっています。社会に蔓延する専門化がもたらす過剰な役割分担意識は,子どもに守りの態勢を学ばせることになっています。なぜ自分がしなければならないのかと理由探しを,否定する方向でしか実行できなくなっています。
分業とは専門領域が他領域とギブ関係で結束するという前提を内包しているはずです。教育は専門家に任せておけばよいという逃げは,人間養育の総体を見失った専門ぼけでしかありません。学校は知の教育,家庭は情の養育,地域は意の涵養といった具合に専門領域を分けることはできますが,それは相互不可侵を強制するものであってはなりません。養育は社会全体が担う基本的自己増殖活動である以上,常に他領域にギブしあう意欲を示し続けなければならないはずです。
子どもが学校と家庭と地域で違った顔を示しているのは,環境の断絶を子どもがすでに見抜いているからです。逆に言えば,子どもはそうせざるを得ない所に追い込まれていると言えます。社会の豊かな様相の陰に流れる通奏低音としてのギブの美音を聞かされていないという不遇さを見届けてやるべきです。
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