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【第4章】ドウゾのしつけ
4.5 とりあえずはじめていけることを見つけるために?
社会的ギブ活動として献血率と,青少年のテイク行動として非行者率を選び,手持ちの地域分布データを比較したことがあります。その分析から献血率が高い地域では非行者率が低いという相関が見られました。この事実が示す意味は地域がギブの傾向を持てば,子どもたちのテイク行動は二次的な帰結として抑制されていることを示している点にあります。イソップの北風と太陽の寓話に比せられます。献血とは相手が見えない善意であり,広い他者意識を持たなければ実行には移せないものです。誰かの役に立つだろうという温かいリンクが想像できています。
このような温かな人間関係を身近に実感できると,子どもはごく自然にギブ意欲に目覚めていきます。ギブの目で見る人間関係は温かく,つながりを次から次へと伸ばすことができます。一期一会の縁を実感していたようなネットワーク化した他者概念を子どもが持つと,献血者の思いやりが自分のことのように伝染してきます。親がするように育つという巷説に便乗した学びができることになります。
人は言葉で考え価値観を作り上げるものです。同じ行動であっても,それを表す言葉によって価値判断が左右される場合があります。不貞が不倫に,売春が援助交際に,強盗がオヤジ狩りにと脱色したとき,悪への嫌悪や憎悪も漂白してしまいます。罪を憎んで人を憎まずと言われますが,その実現を罪の色を薄めることで代行してはなりません。意図的ではないにしても悪に対して寛容であることは,社会基盤に亀裂を生ぜしめる愚行になります。麻薬と言うからいけないので麻毒と言えばいいという提言を目にしたことがありますが,言葉の力を侮っていることへの一石でしょう。大衆マスコミの発信者は言葉を弄んでウケをねらっているようですが,その不適切な言質が未熟な子どもの価値観を築く材料として紛れ込みつつあることへの責任を自覚すべきです。少なくとも子どもが関わる言葉の善悪のめりはりには,いい加減なノリだけで手をつけるべきではありません。マスコミは言葉の力を通して子どものしつけをしているという認識を持つことが必要です。良質な言葉を提示することが,今とりあえず期待されている責務です。
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