《第2章 子育て心温計の誕生》

【2.4】善悪の基準?

 普通の子どもが良い子どもになるときと悪い子どもになるときを明確に区別するためには,二つの基準が必要です。この大きな基準についてここで考えておくことにしましょう。

 私たちの日常生活の基準として法律があります。しかしながら私たちはその条文の一つ一つを知らなくても,法に触れない生活をすることができます。何をどのように意識していれば自然に法にかなっていることになるのでしょうか。日常の生活の中で私たちの心の底に横たわっている社会のルールとは,一体どのようなものなのか,ここで改めて問い直してみます。
 次のような簡単な疑問が子どもから問いかけられます。
   「なぜ,人のものを盗ってはいけないのか?」
突然こんなことを問いかけられたら,どぎまぎしてしまうかもしれません。それでも一応はそれらしい答をすることはできるでしょう。おそらくさまざまな答え方があると思います。しかし,誰にでも納得のゆく基本的なポイントは一つであるはずです。
 例え話で考えてみましょう。空腹の男がある家に忍び込み,食卓の上にあった一個しかないパンを盗って食べたとします。パンを盗まれた人には「生きる権利」があります。一方空腹の男にも生きる権利があり,それを否定することは誰にもできません。両方ともに生きる権利があるにも拘らず,私たちの社会は泥棒の方の「権利の行使」を法によって禁止しています。この盗みをすること以外にも,人を傷つけてはいけないとか,騙してはいけないなどといったことが法によって禁止されています。ではこの法律とはどのような理由から片方だけの権利を弁護しているのでしょうか。相反する二つの立場を考えてみますと,法は盗まれる人,傷つけられる人,騙される人など,つまり何かをされる「受け身の立場」にある人の方を保護しようとしています。ですから弱い立場にある人を守るために法があると言えます。法律の専門家ではありませんので学問上の見解は分かりませんが,私にはそう思えます。
 私たちは社会を作りその中でしか生きてゆけません。そこではどうしても生きるための権利の行使が衝突することは避けられません。そのような場合に,まず弱い立場にある者を保護するという共通のルールを守っていくことで,人間らしい社会を築き上げてきたと言えるようです。
 このことを確かめるために別の例え話を考えておきます。お腹をすかした少女がパン屋の店先にあるパンの山から一個のパンを盗んでしまったとします。もちろん法によりこの少女は泥棒になります。パン屋の権利を侵害したからです。でも私たちは少女の方に同情し法を拒否したい気持ちになります。どうしてなのでしょうか? それは少女の方が弱い立場にあるにも拘らず,法が弱い者を保護していないことに矛盾を感じるからです。もしこの場合にパン屋が自分の所有権を放棄して少女にパンを与えたとしたら,私たちはほっと救われた気持ちになるでしょう。
 私たちが心の奥に抱いている悪いことの基準が見えてきました。私たちの社会の底にある基本的な考え方は,弱い者が十分に保護されているか,弱い者の権利が犯されていないかという基準です。私たちが最低守るべき基準は,
  『弱い立場にある者の権利を犯さない』
ということです。これを少しだけゆるめた基準として,よく知られている
  『他人に迷惑をかけない』
という生活の信条があります。

 次に良いこととはどのような基準を持つのでしょうか?
 ノーベル賞を授賞したシュバィツァー,マリア・テレサといった素晴らしい人たち,不幸な災害時に子どもをかばっている親たち,難破した船から子ども・女性を優先して救助しようとする男たち,多くの人が浮かびます。これらの行動例に共通することは,弱い者を積極的に守ろうとする行動であるということです。口先だけではなく身を挺しての行動です。自分のことは後回しにしていることに特に注意しておきます。良いことの基準は
  『弱い者の権利を守る』
ということになります。もっとゆるめた場合には
  『人の役にたとう』
という基準になります。

 社会のルールつまり道徳と呼ばれるものの善悪の二つの基準が決まりました。私たちの日常生活の中で生きているルールはこの二つの基準です。普通に生活していれば法律を知らなくてもよいのは,私たちが持っているルールに法も合致しているからです。

 「自分がされたくないことは人にするな」という言葉があります。これは『銀の道徳律』と呼ばれます。またあまり知られていないようですが,「自分がされたいことを人にせよ」という言葉があります。これは『金の道徳律』です。人間の長い歴史の中で育まれてきた伝統の知恵です。この二つの道徳律は,それぞれ上に述べた二つの基準と相通じる所があります。