《第2章 子育て心温計の誕生》

【2.5】叱ることと褒めること?

 私たちの子育ての中で「叱ること」と「褒めること」を使い分けることが大事であることは言うまでもありませんが,時折間違った用い方が目につくこともあります。叱るのは悪いことをしたときに決まっていますが,良いこと例えばお手伝いをしないときにも叱ってしまいます。手伝いは叱ってさせるものではなく,褒めてさせることです。普通と違って悪いことをしたときに叱り,普通と違って良いことをしたときに褒める。それ以外の普通の場合には子どもを見守るようにして発育への援助を心がけます。二つのしつけの方法,叱ることと褒めることを上手に使い分けることで,子どもには悪いことと良いことの区別がはっきりとします。何でもかんでも怒鳴りつけてばかりでは,何が本当に悪いことなのか分からなくなってしまいます。これがいちばん困ることです。
 例えば嘘をついたときにも手伝いをしないときにも同じように叱ったとします。子どもは嘘をつくことが手伝いをしないことと同じ程度のことと判断し,良くないことだと覚え込みます。本当は嘘をつくことは悪いことですから,決してしてはいけないことだ思うべきなのに,良くないことだからなるべく嘘はつかない方が良いと軽く考えるようになります。悪いことに対する徹底が不十分になってしまいます。
 母がいないある日,女の子が食事の用意をしました。父親に「やっといなくてはならない子になったね」と言われて,仕事の意味を知り同時に存在を認めてもらえたことをうれしく思ったと作文に書いています。人の役に立つことが人間らしさにとって良いことであり,人間はそこに自分の存在を確認し生きがいを見つけます。手伝いをしてくれた子どもに「ありがとう」と言ったことが,役に立つことができたという喜びにつながります。人の役に立つ良い行動に喜びを感じさせることが子育ての基本です。子どもにとって向上しようという意欲の原動力になるのはこの喜びです。ですから私たちは褒めて感謝する形の子育てを選ばなければなりません。
 私たちが子どもであった頃,ちょっとした悪ふざけ,例えば高い所で人をびっくりさせようとちょっと押す真似をしたときなど,「たとえ冗談でもそんなことをするもんじゃない」という親や大人の言葉がとんで来ました。今は冗談であればと余裕のある態度で一緒におもしろがっているような気がしてしようがありません。本気であろうと冗談であろうと,そのような曖昧さを許さない身の震えるような親の真剣さが,子どもがする先の見通しを欠いたいたずらや悪ふざけを,大きな過ちとして印象づけます。冗談にもほどがあるということを親子とも忘れてはなりません。
 またたとえ気まぐれであった手伝いに対しても,心を込めた「ありがとう」の言葉は,その行為を良い行為として印象づけます。家庭での日々の生活の中の些細な経験の中から大事なものを指摘し,「親の願いを込めて印象づけ」てやることがしつけです。そうすることで子どもには何が良いことで何が悪いことかがはっきりと見えるようになりますし,この印象づけにより子ども自らの心に残る体験となります。
 このようにしつけの仕方には二つの形が必要です。悪いことはしてはいけないという禁止の形と,良いことはしようという奨励の形です。この二つの形も含めて日常生活の中で行われる指導・援助などからなるしつけの特徴は,一般的に子どもの心に「印象づけ」をすることです。
 発達の段階に応じて親の援助の仕方を変えながらも印象づけをしていきます。子どもが今自分はどの段階まで成長しているのかということを分かるように働きかけをしなければなりません。子育て心温計ではこの働きかけについても考えてみようと思います。
 叱るという形一つでしつけをしますと,子どもは自分がどの成長段階にいるのか分かりません。理屈は分からなくても,しつけの形の変化で親の期待を敏感に感じとって子どもは自分の成長を確認していきます。何をどう叱るか,何をどう褒めるかといったことを子どもの成長に合わせて順序よく配置しておくことが,心温計に必要な要請でもあります。
 しつけはその多くを親がすることになります。そのときに親の権威が伴っていなければなりません。子どもの心に親の言葉や態度を受け入れようとする気持ちが確立していなければなりません。親の言うことは社会的に客観的に当然のことであると信じさせなければなりません。そのためには完璧ではなくてもありのままの,真剣さだけは漂っている日常生活を親が示すことです。親が真剣に生きていると,子どもも親の言葉を素直に受け入れます。親が口先だけでその場の気分で,成りゆき任せに暮らしていては,子どもは一貫性の無さを見抜き,親の言うことなどには耳を貸さないでしょう。会社に真剣さを置いて帰って来る父親は,家で好き放題の姿を子どもに見せつけています。親の言うことを聞こうとしない子どもを責めるのは間違っています。聞いてもらえるような親でない自分を恥じるべきでしょう。私たちが自分の心温をしっかりと平熱に保っておくことが求められています。