《第3章 子育て心温計の仕様》

 子育て心温計の全体図は別ファイルに示すとおりです。

【3.2】子育て心温計の健全発育部

 (4)[自分を他人に移せるか?]
 共存状態で人と人との関係の持ち方を経験しますと,目の前の他人に直面しているのが自分であると気付きます。人の振り見て我が振り直せと言われていますように,自分のことは分かりにくいものです。ですから自分のことをすぐ棚に挙げてしまうようなことをしてしまいます。自分と違う他人を見て,自分は他人と同じと思っていたけどそうではないときもあることが分かります。例えばおもちゃを貸して我慢をしている自分,順番待ちの列で人より後ろに並んでいる自分を知ります。このように他人に対する自分を見ることができる「もう一人の自分」が誕生し,そこではじめて自分の思いを他人に移すことができるようになります。
 今の子どもたちは人の気持ちが分からないと指摘されることがありますが,私は人の気持ちは誰にも分かるはずはないと思います。分からないが分かるようになろうという努力が大切です。簡単に分かると思っていたらそれは思い上がりでしょう。私たちが人の気持ちと思っているのは,自分を他人の立場に置いたときの自分が感じる気持ちです。それをもう一人の自分が見ているのです。
 例えば街を歩いていて,すれ違う人がどんな人であるか全く知らなくても,私たち自身が他人に危害を加えようとは思いもしないので,同じように安心できる人と感じています。所が私たちが人に危害を加えようと思っていたり,他人を信じられなくなっていますと,すれ違う人が逆に自分に危害を加えようとしているように思えたり,笑っていると自分のことをあざけっているように思い込んでしまいます。また眼をつけたという言いがかりを付けようとします。このように私たちにとって人の気持ちは,自分の気持ちの裏返しにすぎません。
 バスに乗って座っています。立っている人もいます。私たちは以前に立って我慢した経験がありますから,そのときの自分の辛さを思い出します。そして今立っている人はそのときの自分と同じ気持ちだろうと推し量ります。それが私たちが普通言っている「人の気持ち」であり,とりもなおさず自分の気持ちなのです。ですから人の気持ちを思いやるためには,私たちが同じ経験をしておかなければならないことになります。失恋をしたことのない人に失恋している人の気持ちは分かるはずもありません。人の気持ちを思いやることができる人は,経験の豊かな人であり,多くの共通体験を持っている人です。苦労人に人間味があるのは当たり前ですし,また体験することの大事さが言われるのも人と共通な体験を多く持て,いろんな場面で人の気持ちが推し量れる種になるからです。
 また読書をすることの大事さもここにあります。主人公と同じ立場に立って同じ思いをし,夢とロマンの中を飛び回ることで,現実の自分を離れた立場から物事を見ていることになります。もう一人の自分を呼び起こし,また本物ではありませんが疑似体験をする事ができるということなのです。
 さて共通な体験を持っているとき,自分の気持ちを他人に移すもう一人の自分が,目の前にいる人を気の毒にと思うと親切な行動を起こします。このとき私たちの気持ちの中には「優越感」が芽生えます。つまりもう一人の自分が自分と他人を比較し,自分の方が優位にあると判断しています。席を譲ってあげる,荷物を持ってあげる,幼い子どもをかばってあげる,この○○してあげるという気持ちがそれです。かわいそうだと思ったから席を譲ってあげたのにありがとうとお礼を言われなかったとき,腹を立てることはないでしょうか。自分の優越感が満たされるためには,相手が自分の劣勢な立場を認めてお礼を言うことを求めます。親切にしようと思っても相手が気を悪くしないだろうかと考えることがあるとすれば,それは自分の優越感が相手に受け入れられるかどうかが心配だからです。本当に困っている人であれば相手の優越感など気にするほどのことではありませんから,気にせずに受け入れてもらえますが,それほど困っていると思っていない場合や,あるいは困った状態にあることに気付かなかったり,それを隠そうとしている場合など,「小さな親切・大きなお世話」という言葉が返って来ます。優劣という立場があからさまになることが気に障るようです。「偉そうに」とか,「なに様のつもりで」といった拒否的反応で応じられます。
 社会生活上この隠された優越感による親切も必要ですが,もっと高次な気持ちを持つことが大切です。このことについては,心温計の高い目盛りの所に再度現れます。
 子どもどうしの場合,この優越感を育てすぎると発育が疎外されます。次の発育基準(自分のモデルを持つ)につながるように援助しなければなりません。例えば「ぼくの方がお兄ちゃんだから」というように考えさせれば,優越感が上手に転化されていきます。
 このように他人の立場に自分を置いていく中で,私たちは自分が知らない立場,あるいは自分とは違った立場にある人がいることに気付きます。私たちは子どもの気持ちは良く分かります。ですから思いやりを持ちすぎて過保護になることもあります。所が老人の気持ちは分かりません。私たちには老人の経験がないからです。親の気持ちを子どもが分かってくれないのも同じことで,自分が親の立場になってはじめて親の有難みが分かる経験を必要とします。このように共通の経験を持てない人に対しては,どうしても自分との違いだけが表に現れて来ます。
 子どもの心の働きに同一視ということがあります。自分がしたいと思っていてもできないことを他の人がやりとげているのを見ますと,自分をその人と同一に見てその真似をすることによって,満たされない欲求を満足させようとする心の動きを同一視と呼びます。子どもが自分を小さく弱いものと感じられる場合には,自分とは目に見えて違っている親・兄・姉の地位や力を誇り,優れた点をわがもののように思い込む,つまり自分をより強いものと同一視し,強くなりたい大きくなりたいという欲求を満たそうとします。ですからこの時期の子どもに対しては両親が模範を示し模倣させるべきです。お父さんが寝ころんでテレビばかり見ていて口先だけで子どもに勉強しろと言っても大した効果はないでしょう。自分の仕事について勉強している所を見せる方が,口で言うよりはるかに効果があります。
 以上は子ども自身が能力的な未熟さを自覚している幼児期から小学校低学年までの場合です。より高学年になりますと日常生活の上では,表面的には能力の未熟感を味わえなくなります。多くのことが大人と同じようにこなせます。親は次の目標を用意してやらなければなりません。目標とは今の自分に備わっていないもののことです。未熟であると思い知ったときだけ目標が生まれます。今の場合,社会的な立場の違いによる未熟感を教えてやらなければなりません。例えば大人との関係でも,親に対するときと先生に対するときでは明らかに違います。人と人との関係にはたくさんの種類があり,それぞれの関係に応じた適切な対応の仕方があることを学ばせる必要があります。父,母,兄弟,友人,先生,近所の大人,といったお互いの人間関係のタイプとそこに漂う社会的な立場の違いをはっきりとさせることで,自分とは違った相手の立場に気付き,その関係を通して自分自身の未熟な立場を正しく認識することができます。またボランティア活動に参加させることによって,多くの多様な人との接触を持つことも役に立ちます。狭い生活空間を飛び出したとき,自分が当たり前と信じ込んでいたことが必ずしもそうではないことがあるという経験を重ねることで,未知なことがまだまだ存在していることを知ります。未熟な自分を発見できますし,同時に人を見る目が豊かになってきて,より客観的に物事を考えられるようになれます。
 特に子どもに対する大人の関係は子育ての場面ではたいへん大切な関係です。社会的な能力に関して子どもは大人に比べて未熟です。それは行動に対して「けじめ」という形で子どもの前に現れます。「けじめ」とは立場の違いをはっきりさせるということです。子どもは自分の望むことが否定されたとき,外に大きな力があると感じとります。お母さんが「ダメ」と言うことで,自分の力を否定するものとして母親の力を感じます。つまり「否定とは力なり」と覚えます。ですからやがて「イヤ」と言うことで自分の力を誇示しようとします。これが反抗です。母親のダメに対してイヤという自分の力で対抗し,自分の力の程度を確かめようとしているのです。大人と子どもの間を力によってけじめをつけることにより,子どもは自分の力がまだ大人と同じではないから否定されていると感じます。この未熟感を持たせることが,次への成長のために必要な条件になります。
 例えば今乱れている言葉遣いには特に注意をすべきだと思います。親に向かって「オイ」と言う子どももいます。友だちの家に遊びに行っても挨拶ができません。その他の生活面では,乗り物の中では親が座って子どもは立たせるべきです。半額しか運賃を払っていないのですから。家庭の食卓は父親中心であるべきです。今献立はカレー,ハンバーグが多く,子ども中心になりすぎていないでしょうか。子供部屋はあるのに父親部屋はないというのも問題です。とにかく大人中心の家庭に戻すべきでしょう。
 以上述べてきましたように,相手を正しく理解することによって自分の立場を理解できる状態が〈自律状態〉です。他との関係の中にある自分をもう一人の自分が見つめることのできる状態です。
 地域の縦割集団は,立場の違いが年齢差という形ではっきりとしているという意味で大切なものですが,今は消えかかっています。このことは子どものがき大将集団がないと嘆くより前に,私たち親自身の地域社会に老人・壮年・青年・子どもという年齢的に連続した縦割集団がないことを反省させてくれます。子どもは遊び社会の中で大人の社会を真似ながら自然な訓練を受けていきます。子どもの縦割集団がないということは,子どもの目に大人の縦割集団が見えていない,そして実はそんなものは存在していないということのようです。地域活動やPTA活動は子ども集団を作ろうとするよりも,まず自らの地域社会に大人集団を作り出すことの方が先決ではないでしょうか。