《第3章 子育て心温計の仕様》

 子育て心温計の全体図は別ファイルに示すとおりです。

【3.2】子育て心温計の健全発育部

 (6)[成熟への意欲を持てるか?]
 未熟な自分もやがては大人のようになれると思い,モデルに向かって努力します。この努力が三日坊主であっってはいけません。日常的に意欲を持ち続けなければなりません。「継続は力なり」という言葉も意欲を支える合い言葉です。そうは言ってもこの意欲を持ち続けるということは大変難しいことです。私たちは何か決心をしてもほとんど中途半端になってしまうことをいやと言うほど思い知らされています。どうしたら良いのでしょうか。
 こんなことはありませんか。自分一人で決心したことは割と簡単に済し崩しにできますが,他人と約束したことは少々無理をしても守ろうとします。私たちは社会の中で他人との連帯感を持って日々暮らしています。一人では生きてゆけませんので社会をつくりましたが,その基本は連帯感です。例えば,仕事に関して身体がきついと感じていても,自分は他人とつながっていますので少しは自制をしなければなりません。つまり責任をみんなが分担することで,私たちは社会の一員として暮らせるわけです。このように責任を果たすために強制的に意欲を持たざるを得ない場合があります。子どもは親や教師との関わりの中で強制的に学習させられます。学校とか勉強部屋という環境を整えることで,勉強せざるを得ない状態に追い込まれます。自立できない子どもにとっては何のために学校に行かなければならないのか,勉強しなければならないのか理解できませんから,この環境からの強制は苦痛以外の何物でもないでしょう。大人でも食べるためだけに働かねばならないという思いしか持っていないとしたら発育不良でしょう。とにかく,この○○しなければならないという強制された意欲は,消極的な意欲にすぎません。自分の気持ちに逆らわない積極的な意欲を持つべきでしょう。
 子どもは未熟です。一年や二年の間で成熟することはできません。先が永いためにどうしても「いつまで努力しても何も変わらない」と感じて,意欲を持ち続けられなくなります。そのような場合,意欲を持ち続けるためには責任感ではなく,より本質的な「連帯感」を持つようにすれば良いでしょう。未熟な者同士が力を合わせることで一人ではできない大きな何かができると思うことができれば,連帯の意味が分かります。子ども集団に地域の活動を任せることなどがその例です。協力することがどんなに素晴らしい成果を生み出すのかと納得できるのは,自分のような未熟な者でもそれなりの力があることを体験し自覚できたときです。家庭で手伝いという形の仕事分担をすることで,未熟な自分でも生きる場所があるという安心感が連帯感を支えます。できる子どもは役に立つ子ども,できない子どもは役に立たない子どもという捉え方ではなくて,できない子どもでも協力し合うことで役に立てるということを教えなければなりません。私たちの社会の基盤はこの考え方なのです。私たち一人一人は非力で70点の能力しかなくても協力し合うことで大きな力を発揮できると思うから,自分の非力さ未熟さを悩むことなく明日への自信が持てているのです。ただ現在の大人たちは自分がまだ未熟であるということを忘れかけているようです。
 モデルに向かって希望を持って努力し,一方で未熟な今でも協同することでそれなりに役に立てていると感じられたら,一歩一歩の遅々とした歩に過ぎなくても自信を得ながら継続することができます。努力を重ねてゆくうちに連帯した社会の中で自分が十分に責任を果たしていけるまでに成長できたら,自分の目指す理想に向かってさらに自主的に挑戦していけます。この状態が〈協力状態〉です。
 この協力状態にまで成長しますと,社会性が芽生えます。もう一人の自分が,自分と他人,自分と社会の両方を見渡します。自分が皆の中の一人であり社会の一員であることを理解できます。つまり社会という概念を知るようになります。親子,家族,隣人,地域,学校その他のいろいろな社会を動かしているのは皆の力であり,自分もその一人であることに誇りを持とうとして努力します。互いに支え合うために分担して仕事をし責任を果たすことが信頼感を育みます。そこには仲間という気持ちが生み出されます。この信頼に裏打ちされた仲間になるということは,他人が自分を認めてくれることであり,社会的な自立が保証されることになります。自分の社会的存在感は,この協力状態に入ってはじめて得られるものです。
 責任ある社会の一員になろうという意欲を持ちますと,明日への展望が拓け,今日より明日という具合に時と共に自分を高めようとする前向きの「期待感」が現れてきます。もう一人の自分がそうさせます。それが進歩を生み出してゆきます。
 中学生頃から,それまで外の世界に向けられていた目が,再度自分の方に向けられるようになってきます。知識を獲得してきますので,自己の能力を合理的に正確に評価でき,仕事に不可欠な条件を理解し,自分の可能性も意識し始めます。そこで成功可能な職業領域がまだ大まかではありますが選択できるようになります。しかし実際には職業の表面,特にカッコ良さとか楽して儲けが多いなどといったことしか見えていませんので,その判断は浅いものです。信用の大事さ,約束を守ることの重大さなど,仕事の条件の軽重を,知識としての段階から生活の中で体得させる段階にまで成長の促進を図らねばなりません。
 さて,子どもが意欲を持つプロセスについて話してきましたが,親としてはどのような援助をしてゆけば良いのかを考えておきましょう。意欲を持つだけ,つまり気持ちだけ持っていてもそれだけでは不十分で,具体的な方向付けや課題選びに親は関わっていく必要があります。すなわち,親による「やらせ」が必要です。やらせとは命令によって何かをさせることではなく,自発的に行動を起こすように仕向けることです。例えば母親が「困ったなあ」と呟きます。そばにいた子どもが「どうしたの」と聞きます。「実はね」と切り出せば,「私がやってあげる」と言い出します。「じゃあ,頼もうかしら」と任せます。これがやらせです。このときの課題には子どもにとって未経験なことを含めておきます。ただし親は子どもができることを見極めておく必要があります。例えば郵便局に小包を出しに行くとか,病院に薬を取りに行く,回覧板を持っていくなど,子どもに応じてやらせます。そして成功したときには必ず「やればできるね」の言葉を添えて,確認をしてやります。社会的な他人との接触がある課題に取り組ませることで社会への責任ある参加を促し,信頼して任せることで人間としての小さな誇りを体験させられます。
 この段階では「子どものくせに」という言葉は絶対に禁句です。たとえ半人前ではあってもそれなりの社会的な役割を果たすことができるからです。この段階にいる子どもは自律状態にある子どもと違って,自分が半人前であることは十分に自覚しています。ですから追い打ちをかけるようなけじめ付けはかえって逆効果です。半人前だからこそ一人前になろうとがんばっているのですから,応援すべきです。自分がやっと努力して掴んでいる半人前の段階さえも否定されることは存在価値を否定されてしまうことですから,反発したり逆に前向きの意欲が砕かれてしまうことになります。半人前であることを認めた上で,人と人との付き合いを維持する寛容さが望まれます。窓際のトットちゃんは一人の女として扱ってくれたことを大変に喜んでいます。子どもを「子どもという一人の人間」と認めることが忘れられています。子どもを未熟だから認めないという大人の尺度は,冷酷な検地竿に似て人間味のない尺度であると言えるでしょう。
 朝,出がけには「気をつけて行ってらっしゃい」という声をかけて下さい。子どもたちは大変喜んでいます。自主性,自主性と盛んに合唱されていますが,自主性とは自分の存在基盤が明確に自覚できるときにのみ発揮できます。自分が願う道を着実に歩んでいるという自信を親の温かな言葉が保証してくれますと,さらに新たなもう一歩をという自主性が出てきます。ダメダダメダと言われ続けた子どもは,自分さえも信じられなくなり意欲をなくし,自信を失い自主性も芽を出さなくなってしまいます。