《第3章 子育て心温計の仕様》

 子育て心温計の全体図は別ファイルに示すとおりです。

【3.3】子育て心温計の発育不全部

 ここでは,心温計の目盛による分類ではなく,状態別に説明することにします。
 (5)[自我状態?]
 自分を他人の立場におくことができますので,人が感じる気持を分り,自慢するようになります。皆が持っていない高価な玩具を買って貰ったとき,自分が欲しかった気持を他の子どもに移して,友だちがうらやましく思うだろうと考えることができるから自慢をします。人の気持が分らない人は決して自慢などしません。人の気持とは自分の気持の裏返しであることは既に述べましたが,このような場合,友だちは本当は羨ましくもなんともないかもしれません。
 この自慢する気持の陰には優越感,つまり同じでありたくないという気持があります。この質の悪い優越感に取付かれますと,逆の立場になったときには妬み心が湧いてきて,素直でなくなり反抗的にさえなります。これは群集状態での足の引張り合いとは違います。今の場合には自分だけが他より上にありたいという意識を持っているからです。
 このように自我が芽生え自分を見つめる場合に,あくまで自分を基準にして優越意識だけが強くなりますので,どうしても相対的に他人を軽蔑するようことが起ります。自分の思い通にならないのは母親が無能であるからだと思い込んで暴力を振い始める家庭内暴力もその例です。無能なものには暴力も許されるとまでエスカレートしていきます。ここまで極端にならない場合でも,何かに失敗したとき自己反省などせずに,自分の責任を親や他人に転嫁し,あくまでも優越感を保とうとします。「昨日はお客さんがあったので勉強に身が入らなかった」,「親がテレビの音を小さくしなかったので気が散った」などです。
 一方,今の自分は未熟な子どもであるが大きくなったらお父さんみたいになれるんだという具体的な成長のモデルが持てませんので,今の自分の未熟さが当然であると思えません。こんな場合には,屈辱を味わい劣等感に落込みます。こんな話があります。頑張り屋で正義感の強い子どもがいじめの標的にされます。クラス会で真面目な意見を発表すると「マジマジ」とからかわれます。このとき最初にからかい始める子どもは,後から追従する子どもたちとは少し状況が違うような気がします。後からついてくる子どもはただ面白がっていて,最初の子どもの思いなど分らず形の上で同じ行動をとろうとする群集状態にあります。ですから集団対個人になっていじめのパターンになります。最初の子どもは毎日の生活を支えてくれるモデルが持てないまま気持の上で張りがなく,何かが足りないと感じとっています。真面目であることが価値のあることらしいと感じてはいても,その具体的な内容を理解させてくれる考え方を持っていません。焦りに似た思いが劣等感を生みます。「マジマジ」とからかうのも,「あいつは分っているらしいが自分には分らない。だからマジとはどんないいことがあるのか,俺にも分るように教えて見せろ」と叫んでいる積りなのかもしれません。無意識のうちに劣等感を悟られたくないと感じ,からかいという間違った問いかけになっているような気がします。本当に価値があるなら,俺のからかいを跳ね返してみろと言っているのかもしれません。
 女の子の場合,自分が理想とするモデルを持ってはいますが,そのモデルの実現は男性の庇護と援助の下でのみ可能であると考えて,自分では何もできないし,またしようともしないことがあります。いわゆるシンデレラコンプレックスです。これはモデルが夢であって,自分自身がどう育ってゆくか,そのための実践的モデルを持てない例です。美しく可愛くと他人へ媚びるようになります。嫉妬することもあるでしょう。優劣の判定に心が不安定になります。
 自我状態は自分と他人をもう一人の自分が見つめることのできる状態ではありますが,その肝心のもう一人の自分が少しばかりひねくれています。このもう一人の子どもに話しかけるような親からの対話が望まれます。子どもの心に食込むような言葉を投げかけてやるということです。あなたが落込んでいるのはこういうことなのだということを,大人の体験から整理してやらなければなりません。もう一人の自分が本当の他人に近づき理解することがなければ正常な発育につながりませんから,他人の気持を代弁してやることも必要です。頭ごなしに矯正しようとするのではなく,子どもと同じ立場で話しかけることによって,子どもは親の言葉を通して他人に対する本当の目が開かれます。自分対他人という相対的な対抗的な関係ではなく,自分も他人もという共存意識から再出発させる必要があります。