《第3章 子育て心温計の仕様》

 子育て心温計の全体図は別ファイルに示すとおりです。

【3.3】子育て心温計の発育不全部

 ここでは,心温計の目盛による分類ではなく,状態別に説明することにします。
 (8)[変動状態?]
 社会人あるいは大人としてこうありたいと考える自分の成長モデルの中に〈協力状態〉の経済社会への適用のみの価値観を持込んでいる場合に,打算的な行動様式をとります。
 もともと経済活動というものは,人間が食べるために田畑を耕し狩猟をしてきたように生活を支える重要な土台ではありますが,決してそれ自体が目的ではありません。生活がまずあって,経済はそれに奉仕するためにあるはずです。しかし今の社会の特徴を見ますと,人間としての生活にまで経済活動の原理一色に塗りつぶされているようです。人間がまるで企業になったように経済に対して過敏に反応し,お金や物こそ不変の価値あるものと信じ,物欲による衝動に身を任せています。すべてが金次第という考え方に染まっています。例えば,老人は長い間働いてきたから大切にしなければと考えます。これは裏返せば,働かざる者食うべからずという考え方になります。人間として成熟したときに顕在する感謝する心を,金銭的な尺度でしか見ることのできない不幸な状態です。
 何故こんなことになってしまうのでしょうか。私たちが生活している社会は協力状態にあります。自立した人々が分担することで支えあっているのが生活圏です。共同社会ですからすべての人を含んでいます。つまり協力ということの意味を分っている人ばかりではなく,協力させられていると感じる人も社会の一員になっています。ですから共同社会を維持するためにはオキテが必要になります。社会人であるために守らなければならない約束ごとがあります。それは平等である,公平であるということです。私たちが責任を果さなければならないと強制されているのは,このオキテがあるからです。私たちは負担を強いられています。負担は軽いに越したことはありません。ですから誰かが負担を軽くすると平等負担をせよという声が挙ります。私たちの平等感は「損の回避」に基づいています。他方,自分が得することには平等原則は決して持出しません。得は黙って取込み,損は声高に逃げて回ります。平等であろうとする意図が経済的価値と同一化してしまい,損得のバランスに敏感になり,損をすることを極度に嫌うようになります。例えば,講演会に出席の依頼をしたら「パートを休まなければならないが,いくら出してくれる?」と言う人もいるようです。子どもにお使いを頼むと弟が「いつもぼくばっかり」とふくれるのも,この変動状態に落込んでいるからです。
 経済社会では,責任分担の平等性を賠償などにより和解するという方法で保つ場合があります。変動状態ではこの方法を人間の権利の平等性にまで形式的に持込もうとします。例えば,万引きをして見つかったら弁償すれば済むという安易な考え方です。人の物を盗むという行為は,物品所持権の交換を合意の上で行わなかった単なるミスであること以上に,人間の権利に対する侵略であるという大事なことを忘れています。
 育てて貰ったから恩返しで親を扶養するという考え方も,得した分を今度は損することで負担の公平さを保とうとする原則を持出していることで,全く同じと言えます。
 情緒的な価値の存在などには全く気付いていませんから,信じることもなく,感動するという高級な感情などは持ち合せていません。損をしてるとしか思えない他人の好意を,何か下心があるのではと邪推し,信じようとせずにとかく批判的になります。前にも触れましたが,人の気持は自分の気持のことです。人の好意を信じられないということは,その人自身の好意が信じられるものではないということになります。ずる賢い人は,人もずる賢いとしか思えません。ですから,人間として心を開いた解放感が持てずに,次第に沈滞感の中に沈んでしまいます。人間的にはギスギスした雰囲気を漂わせるようになります。
 この状態に落込んでいる人に対しては,私たちが持っている正しいモデル,例えば信頼することといった心の価値に触れさせ,感化してあげる必要があります。
 協力状態に働くオキテは一つの方便であり,そのオキテを飲込んでしまうもっと大きな心に成長するための教材に過ぎません。責任分担をしなければならないといつまでも強制されているのではなく,自分を生かすために互いに協力しているという正しい連帯感に気付くことが求められています。