《第3章 子育て心温計の仕様》

 子育て心温計の全体図は別ファイルに示すとおりです。

【3.3】子育て心温計の発育不全部

 ここでは,心温計の目盛による分類ではなく,状態別に説明することにします。
 (9)[情操状態?]
 例えば,音楽や絵画などの芸術が分ると錯覚しているような場合で,騒々しいだけの幼稚な音楽に興奮し熱狂している状態です。感覚的な陶酔状態は享楽的で刺激的ですが,やがてその後から必ず倦怠感が襲ってきます。興奮が冷めた後の空しい気持を,経験することがあります。倦怠感を癒そうとさらに興奮を追い求め,その繰返しには際限がなくなります。次第にエスカレートしながら,深みにはまっていきます。
 豊かさの中での倦怠感はこの情操状態にあることの証なのです。目的がない興奮は心に余韻を残しません。豊かさの中で目的を見失ってしまいました。母親が心の中に空洞を抱えて生活を非常に寂しがっていますと,子どもにも必ず現れてきます。母親がより高次の自分のモデルを持たずに自立していない場合,子どもにとっては母親がモデルになりますから,結局子どもも自立を知らずに過してしまいます。母親は決してこの偽りの世界に迷い込んではなりません。
 またこの状態にある人は自分だけの喜びしか求めませんので,利己的であり偽善的です。他の権利を守っているかどうかなどは問題外のことです。自分の心が自分から離れられないために,空しくなってきます。例えば,子どもが欲しがるものは何でも買い与えている親は,子どもが本当に求めているものは親の愛であることを知らないまま,表面的に良い親であろうと願っています。子どもと心の交流がありませんので,内心は虚無感に満ちていると思います。本人は自己満足に浸っていると思い込んでいますので,気付いていないでしょう。
 親が旅行から帰ってくると,子どもはお土産を心待ちにしています。子どもは物としてのお土産を期待しているように見えますが,本当のお土産は別のような気がします。遠く離れていても,親が自分のことを気に掛けていてくれた証として,お土産を期待しているような気がします。

 ここで誤解のないようにはっきりさせておきたいことは,芸術などの美という感覚それ自体が虚無的であるということではないことです。子どもや親が未熟であるために,本当の美を感じきっていないということです。美しさに限らず,私たちの情感が貧弱になっている例は,日常生活の中にたくさんあります。テレビが言います。「悲しい話ですね。皆さん,泣いて下さい」,「すごいですね,感心しましょう」,「面白いですね,笑って下さい」。正に至れり尽せりです。視聴者は黙って座っていれば,感覚を適当に心地よく刺激してくれます。災害に会った人たちにマイクを突きつけて「今のお気持は?」と無理に口を開かせようとします。悲しみに打沈んでいる人の後ろ姿に私たちが思いをそっと重ねようとすることを拒否しているのは,私たちにはそのような淡い思いは持てないとでも思っているようです。こんな無礼で過保護な社会では,自分自身の本当の情感は育ちようがありません。子どもたちは皆がいいと言っているからという理由で音楽に聞入っています。これが音楽ですと聞かされています。同じものでも持たされるのではなく,持とうとするときに本物になれます。情緒的なものは個人の心に根を張っているべきです。そうでなければコンピュータと同じ機械に過ぎません。

 本当の美しさとは何かを考えておきましょう。例えば,私たちは花を見て美しいと感じます。なぜ花を見て美しいと感じるのでしょうか。花は実を付けるための手助けを求めて,鮮やかな色彩で虫を誘っています。花から実への世代を交代しながら生抜いていこうとする姿を虫たちに知らせることで,今手を貸して欲しいと訴えています。虫に分って貰い手を貸して貰う情報伝達の手段が花と蜜です。花がこうして健気に生きてゆく営みを守るためにこそ,私たちは花を美しいと感じとり,その心地よさが花を大事にしようという思いに変化するのです。花の美しさは侵してはならない大切なものです。美しいと感じることが,弱い花の生命を守るいとおしさにつながります。野に咲く花をきれいだからと摘み取ってしまうのは,花が願っている本当の美しさを理解していないことになります。人が働いている姿は美しいものです。そこに生きようとする願いを感じ,その願いに共感できるからです。若い女性が美しいのは,人間として未来に向った成熟を迎えたときだからです。生命の熱い息吹があります。このように美しさも含めて,私たちが求めている本物の情操は,生命を共に感じるものであるはずです。目的のある興奮とは,生命を分ちあえるものです。
 情操状態にある人が求めている興奮には,目的がありません。興奮という影だけを追い求めていますから徒労に終り,後には空しさしか残りません。このように情操状態は先のない袋小路です。生き甲斐という未来へ続く思いはありません。