【4.1】診 断 例
(その1)布団を上げること
小学校高学年になると自分の布団を片づけることができるはずです。健全な発育をしている子どもは毎日布団を上げています。ですから6年生になっても布団を上げない子どもは問題児と判定されてしまいます。子どもたちに「なぜ自分で布団を片づけているのか?」と尋ねると,多くの子どもは「お母さんに叱られるから」と答えてくれます。「なぜお母さんは叱るんだろう?」と更に尋ねると,「自分のことは自分でしなければならないから」と答えます。この動機付けがあれば確かに自分で起床し,自分で服を着て…という一連の行動ができます。ですから自立のためのモデルが育っているように見えます。子どもも親もこれで納得してはいないでしょうか。ここまでの洞察で停止してしまうことがとても気がかりです。
生活のあちこちの場面で,「自分のことは自分でするから,余計なお節介はしないで欲しい」という言葉を聞きます。もし親が家事などを手伝ってと言ったら,子どもは親に「自分のことは自分で」と言い返してくるでしょう。以前流行した「カンケイナイ」という言葉も同じ意味合いであって,あまりに「自分が」という意識しか持てないために,他人との接触を煩わしいものとして拒否してしまいます。
私たちには「自分だけ」という意識(無法状態)が本来的にあります。その意識の上に更に「自分のことは自分で」という突放した意味を持っている躾をすることは,自分意識を助長することになって,また一方で,他人は助けてはくれないという他人からの拒否感を植付けてしまいます。その反動として,人のことに構わないから自分も構わせまいとするような〈孤立状態〉になり,およそ〈自立状態〉とは縁遠い育ちをしてしまいます。
子どもたちの中に一人だけ違った答をした子どもがいました。「お母さんがかわいそうだから」と。その子の母親は身体が弱く,そのことがかえって本当の答をその子に教えてくれたようです。母親よりも力が強くなったとき,母をかばう気持から自分で進んで布団を片付け始めたのです。私たちが自立することを願う目的は,もちろん自分のためでもありますが,それと切放せないもう一つの面,周りの人に迷惑を掛けないためです。もっと積極的には周りの人の役に立つため(奉仕状態)と言っても良いでしょう。自立とは,他との関係の上にあって意味があるものであることを分って欲しいと願います。
布団を上げない子どもを叱る母親は,心では手を取られるので迷惑であると思っていますが,口では子どもの自立のために自分のことは自分でしなさいと子どもに言っています。子どもに自分のことをちゃんとして貰えば母親はどんなにか助かるのかということを教えるように叱ってやれば,子どもも分ると思いますが。そうすればお手伝いも進んでする子に育ちます。布団をあげるしつけ一つでほかの行動まで誘い出す応用の利く教えをすることができます。一々言わなければと嘆く前に,大事なポイントを一つ教えることです。
自分ことは自分でと怒鳴りつけることと,お母さん助かるよと感謝することでは,大きな違いがあります。どんな子に育てたいのかという目標がはっきりしているかどうかの違いです。
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