《第4章 子育て心温計による診断》

【4.1】診 断 例

(その10)対話

 「マンガ」と言ったら何を連想しますか。テレビとか雑誌とかその他多くの連想が湧いてくると思います。ある一つの言葉を伏せて関連する言葉をヒントにして連想によって答えさせるゲームがあります。例えば相手に「小学校」と答えさせたいとします。そのために「遠足」,「運動会」,「先生」などの関連した言葉を一つずつ投げかけていきます。送り手と受け手の連想が一致すれば一言で当ります。なるべく少ないヒントで当ることを競うゲームです。経験とか環境とか知識などの,どの部分で両者の連想が共通であるかが分って,面白いゲームです。この共通な連想を持つことは,人間関係,特に対話の場合に大切な要素です。仲間だけに通用する隠語は,仲間だけが共通連想を持てるという集団の結束力を表すバロメーターです。
 人の気持が分るためには共通な体験を持たなければならないと,〈自律状態〉の説明のところで言っておきました。同じ体験をしていることで言葉から同じ思いが引出されます。このとき人と人は気持が通じ合えます。一つの連想を言葉に託して投げかけ,相手にその言葉から同じ連想を伝えられることが,理想的な対話です。対話は言葉を媒介としての連想のつながり合いです。子どもに一言で「学校」を連想させられるような言葉を知っているなら,素晴らしい親子関係だと思います。子どもの思いを良く理解し共通なものにできています。
 日常の中で「今日はどうだった?」と話しかけたら,「別に」という返事が返って来ます。お互いが共通の連想を持っていれば良いのですが,実際にはそうでない場合が多いようです。親子の会話ではお互いの連想を確認し合うことがまず大切です。このことが疎かになっているような気がします。相手のことが良く分っているという安易な思い込みがありますと,本当の対話はできません。親の方にこの過ちが多いようです。常日頃あれやこれや声を掛けているから,親子の会話が十分にあって気持が通じ合っていると錯覚しがちです。叱ることや小言を言うことは対話ではありません。
 対話とは相手の言葉も同じくらいに聞くことです。逆の立場から言いますと,聞くだけでなく話すことです。親は子どもの話を聞くように努力すべきです。これをしないから子どもが次第に親に自分のことを話さなくなります。子どもの方はテレビ,ラジオなどを聞くことに慣れていますので,話す努力をしなければなりません。曖昧な「どうだった?」という問いかけに,曖昧に「別に」と答えていては,対話になりません。二人の連想に一致がありませんから,何も話しかけていないし,何も聞いてもいません。もっと具体的な個々の連想を一つひとつ重ね合せていくのが対話です。
 言葉を通しての人格の触合いや絡み合いが弱くなっているのは,対話の仕方が分っていないからです。子どもたちはテレビなどでの一方通行の情報伝達法しか知らないので,血の通った人間とのつながりが希薄になっています。肉声が発せられた時に自分の連想を重ねて返事を返していくのが,生きている人間同士の言葉のやりとりです。今の子どもたちは授業中どんなときでも頷くことがないと言われます。かといって先生の話を聞いていないわけではありません。聞くことで終っています。相手に対して自分の連想の結果,例えば分りますということを伝えようとする意志がありません。表現する方法を知りません。反対に友だちと話している場合でも,言葉のやりとりを続けるのではなく,お互いが言い放し聞き放しで終っています。授業中,人の発表を最後まで聞かないのも同じです。相手の言葉から自分の連想を膨らませ,自分の言葉を相手の連想と重ねようとしていません。対話は言葉のキャッチボールです。相手が受け易いようにボールをコントロールし,相手の連想に重なる言葉を投げ合わなければ会話は続きません。連想とか概念という抽象的なものは,そうして形成されていきます。
 子どもはテレビを見るときの理由付として「皆も見ているから,見ていないと話ができない」と言います。子どもにとって言葉が醸し出す連想とは具体的なテレビ画面を思い出すことです。自分で画く曖昧な連想ではなく,すべて全く同一の連想を持っています。一つのキーワードで番組のすべてを共通にすることができます。対話として連想を確認し合う手間など要りません。自分で想像することを知りませんから,テレビを見ていないと共通の連想ができなくなり,その共通性によって結びついている仲間から外れてしまうと恐れています。共通な連想に曖昧さがないために,仲間集団の中に余裕がありません。個性をまったく消してしまわなければ,仲間に入れなくなります。同一の連想を持っているから言葉を多く使って表現する必要もないので,単語だけの会話で分り合えます。こうして単語人間が登場してきます。
 仲間内の遊びの世界ではこれでも通用します。ところがもっと広い人間関係がある社会では,単語だけでは意志が通じません。人によって一つの連想を生み出すキーワードは違います。例えば「学校」という言葉から,人それぞれに勉強,試験,運動会,遠足,先生,幼なじみ,夏休みなど,さまざまな連想が出てくるでしょう。このように人によって連想するものが違いますから,どれか一つに連想を重ね合わせるためにはさらに言葉の交換が必要になります。それができるためには言葉を豊富に身につけている必要があります。言葉が貧弱であれば,社会に出たときに分かり合えなくなります。人が分かってくれないのではなくて,人に分かってもらえなくなります。
 山という言葉から連想されるものは人によって違います。緑の山であったり雪山であったりします。形も違います。言葉は抽象的なものですから,一義的なイメージは有り得ません。そうでなければ言葉は無限に発散してしまいます。富士山もふるさとの山も山です。具体的なイメージが固定していないからこそ,山という言葉を使うことができます。この曖昧さが子どもを不安にします。字だけのお話よりもマンガの方を好むのは,絵を見ることで曖昧さが消えるからです。言葉が持つ曖昧さを親はもっと認め,その曖昧さこそが言葉の力であることを子どもに教えるべきです。
 親は豊かな連想を持って子どもの心に夢を膨らせられるような想像力を育てるべきです。他人に与えられた他人の連想を固定したものと受取るのではなく,言葉が持つイメージの豊かさを気付かせるような対話を親は心がける必要があります。親子で連想ゲームをしましょう。相手がどんな連想をしているかを理解することで,自分と他人の連想の違いと共通性が分ります。他人を理解する唯一の方法であり,ひいては自分を知る唯一の方法でもあります。
 南極越冬隊の家族からの新年の電文の中に,全隊員をしんとさせた電文がありました。電文ですから手紙のようにくどくどしたものではありませんが,短くても手紙以上の思いを伝えていました。それは「アナタ」の三文字です。相手がどんな思いでこの電文を受取ってくれるか,きちんと分っています。素晴らしい夫婦の対話です。南極大陸以上の広がりを持つ三文字です。写真ではこの広がりと奥深い思いは伝えられないのではないでしょうか。