《第4章 子育て心温計による診断》

【4.1】診 断 例

(その9)安全地帯

 いじめについての新聞記事に現場からの指摘があります。

 「いじめを目撃しても周囲の子どもたちが傍観している。自分さえ安全地帯にいればあとは知らん顔の子どもが目立ち,逆らって自分にとばっちりが来ることを恐れている。止めさせようとする子どもがいても「格好いいこと言うな」と他の子どもたちから攻撃される。子どもらしい伸びやかな正義感が踏みつぶされている。いじめを見て見ぬ振りをすることは結果的にいじめに加担していることになっている。一方,小学校の低学年で掃除を怠けたとか忘れ物をした子どもに対して必要以上の非難の声が集中するし,また他人の発表が自分の意見と違うと終りまで聞いてやらないことがある。これがいじめのはしりじゃないかと思える」。

 私たちが他人に働きかけをするとき,特に正しいことではあっても他人にとっては不愉快な応対をしようとするときに,まず考えることは,「自分が安全か」ということです。負けると分っている喧嘩をするにはそれなりの気持の高揚が必要ですが,そのような場合は滅多にありません。自分が安全地帯にいると確認できたときに,他へ働きかけるのが普通です。人間関係の中で安全地帯とは,ひとつは絶対的権威に支えられている場合で,もうひとつは多数派である場合です。
 小学校低学年の場合,「自分を他人に移し替える」ことはできませんので,〈共存状態〉か〈群集状態〉にあります。ですから,皆と同じであることが安全地帯になります。忘れ物をしなかった自分たちという多数派から外れることが,非難の源になります。また〈共存状態〉にいる間は他人の立場は思いも及ばず主観的に考えていますから,他人の意見など聞こうとしないのが普通です。学校における先生という権威が多数派に組みしているような場合には,この傾向が助長されてしまいます。絶対的権威が必ずしも多数派か少数派かという数の多少には依るものではないということを知らせることが必要です。
 高学年になり,「自分を他人に移せる」基準を越えて客観的な認識が可能になると,絶対的な権威の存在を認知し正義の概念を持てるようになります。それでもそれはあくまで知識であって,まだ身体にしっかりと根付いているものではありません。多数派に逆らってまで自分の安全地帯を確保できるほどの力はありません。多数派の力は大きいと言えます。社会全体というもっと大きな集団の中で正義が多数派であれば絶対的権威を伴った正義が安全地帯になれますが,今は社会的正義の力は子どもが社会から隔離されているために届かなくなっています。子どもの正義感の後押しさえできていません。
 いじめを受けないために多数派という安全地帯に留まろうと傍観する子どもを非難しては酷です。安全地帯を飛出すことはたいへん勇気のいることです。恐怖に打ち勝つだけの強い意志と支えになれる愛情が必要です。弱者を守るという愛情が持てるような環境ではない今,私たち大人はそれを作り上げる努力を怠ったことを反省すべきです。安全地帯とは本来弱者を守るための聖域であるべきなのに,逆転していることが問題です。
 社会には利己的群集としての多数派がのさばっています。民主的という名目で多数派により絶対的決定がなされます。この多数決原理は,その構成員が他を思いやっていることを前提として成立ちます。ですから利己的欲望追求の手段に堕落した権利の主張という名の多数決は,意味がないばかりか罪悪になりかねません。私たちは多数派の内容を改善するために根底からもう一度育ち直さなければならないのかもしれません。
 安全地帯には悪に対する強大な力が必要です。それは一人ひとりの小さな愛情を結集した総力であるはずです。多数派こそが正義の力を持たなければ社会は死滅します。そうなったときにこそ,社会の安全地帯が本来の機能を回復し,多数派であろうとする子どもたちに正義が伝承されていきます。繰り返しますが,多数派であるから正しいという論理は,その構成員が愛情状態にあるという十分条件を満たしている時にのみ成り立ちます。共存状態や群集状態での多数派は何の意味も持ち得ません。形は単なる必要条件であり,十分条件が意味を付与することを忘れてはならないでしょう。