【4.1】診 断 例
(その6)1と0
ディジタル時計が定着し,世は情報化社会へと突入しています。ディジタル表示とは物理量の「有」と「無」をそれぞれ「1」と「0」に置換えて表示することです。これが今の風潮である「オールオアナッシング(すべてか零か)」の評価の仕方と重なり合っていることは,大変興味深いものと言えます。私たちは仕事や生活の中で何事かを決定しなければならない場面に遭遇することがあります。そんなとき,賛成か反対か,で答えようとします。このような二元的(善と悪,有と無,賛成と反対,必要と不必要)価値観は,評価の結果が単純であり,あいまいさが払拭され社会的な共通の判断に便利です。ですから広く採用されています。多数決議決などその典型でしょう。「黒白をつける」と言うことがありますが,それも同じです。しかし実際のところ私たちの判断はそう簡単に割切れることばかりではありません。
ある法律学者がこんな話をしています。客船が難破をしました。一枚の板切れにつかまって漂っている船客がいます。側にもう一人溺れかけている人がいて,その板切れにつかまろうとします。ところがその板切れは二人を支えるほど大きくはなかったのです。その場合,先につかまっていた人が後からきた人を押退けて,結果的に死に至らしめたとしても罪には問われないそうです。その法律論的解釈を理解するのに難儀をしていたとき,小学生の娘さんに何気なく「もしあなたならどうするか?」と尋ねたそうです。娘さんはあっさりと「交代で立ち泳ぎをする」と答えたそうです。「すべてか零か」という決定は,極限の状況で他に選択肢がないときに限って登場するものです。その決定には常に心理的なある程度の圧迫感を伴います。二人のうち一人しか助からないという状況を脱出し,二人ともに助かる方法があると気付いたとき,この言いようもない圧迫感から解放されます。どちらかを排除しようとするから気持に負担を感じます。この話については,法律的な解釈は〈対立状態〉から〈無法状態〉の境界部分を問題にしていますが,娘さんの解釈は〈奉仕状態〉か〈協力状態〉です。二人ともに助かることを前提にして状況判断をし的確な解答を引出しています。どちらが人間的に上等の考え方か,心の安定はどちらにあるか,明らかです。
子育ての場合に,この「有」と「無」の二元性を持込んで無理をしていることが見受けられます。例えばできる子どもは役に立てる良い子,できない子どもは役に立てない悪い子という振分けをしています。試験では100点をとれる子とそうでない子に分けてしまいます。90点から0点までの子どもはすべて切捨てられています。完璧であるか否か,結果が良であるか否かだけが問われ,途中の努力は評価の対象になりません。評価する方もされる方も無理をしていることに気付くべきです。
「子どもに体罰を与えることは是か非か」といった議論があります。この場合,原則として「非」であるが,「是」である場合も有り得るという結論が現実には通用しているようです。あるいは建て前としては「非」であるが,本音では「是」とする部分もあるとしています。これは必要悪という概念を持込むことです。いけないことではあるが,実際上必要性を認めざるを得ないという判断です。総論賛成各論反対という状況が多く見られるのも,同じ事情です。子どもに対して「嘘をつくことは悪いこと」であると建て前でしつける一方で,大人は「嘘をつかなければならないこともある」と本音で暮しています。強盗に対して「お金を持っていない」と嘘をつくことは許されるでしょう。敵を欺くにはまず味方からと言ったりします。このことを捉えて大人には節操がないと言うことは早計です。
私たちが人間として生きてゆく場合に,この二元的価値観はあまりに荒い判断基準です。あることに賛成か反対かを問われたとき,「どちらかと言えば賛成とか,反対」と答え,気持の上で無理を感じることがよく経験されます。この気持の無理をそのままにしておくことは不安ですから,別の価値観を持込んできます。先に述べた「必要悪」です。つまり善悪の基準と必要・不必要の基準を二つ考えて,必要善,不必要善,必要悪,不必要悪と選択肢を四つにして,自分の判断に一番近いものを選べるようにします。不必要悪という二つの基準共に否定的な選択肢ではない,「必要悪」に存在価値を与えようとします。この心の働きが,建て前と本音の使い分け,価値観の多様性という形で表面化しています。
単一の二元的価値観による子育ては行わないようにしなければなりません。子どもの成長や能力を判断するときに,無理矢理「四捨五入」のようなことをしないようにしたいと思います。人間はそんなに単純ではありませんし,また完全でもありません。二元的に割切れないところにこそ,個性が潜みひいては多様な人生が拓けてゆくものと思います。
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