《第4章 子育て心温計による診断》

【4.3】罪 と 罰

 達成度評価について考えるとき,例えば弱い者の権利を犯さないという基準は,すべての人に100%達成されていなければならないと言っておきました。しかし人は自らの欲望をすべて愛の状態に昇華させているわけではありません。どうしようもない欲望を内に燃やしており,それをどのような状況においても抑圧できるとは言切れません。人は自らが課した道徳ですら完全に守り通せない弱さを持っています。その弱さを認めた上で,100%の完全な自制の達成度が要請されているとき,私たちは「罰」というものを考え出しました。
 盗みという罪に対して社会からの制裁である罰を課すことにしました。盗みをしてはいけないと自制する心が80%まで育っているとき,残りの20%を罰に対する恐れで補ってきたわけです。ですから「なぜ人の物を盗んではいけないのか?」という子どもの問いかけに対して,「お巡りさんに捕まるから」と答える人は,自制心が20%で80%が罰による抑制であることになります。このような人はもし捕まる心配がないと思ったら盗みに走ってしまいます。せめてすべての人が50%以上の自制心を持って欲しいと願います。
 子どもが人様に迷惑を掛けてしまったときに叱ることも,一つの罰です。子どもの達成度不足を「叱られるという恐怖」で補ってやることです。叱る場合のこの恐怖の部分が見落されているようです。恐れの無い叱りは水をざるで掬うように,20%の補充ができません。
 ところでこの罰による抑制は「矯正」を伴わなければなりません。自制する心をさらに育てることを忘れないようにしなければなりません。父親が頭ごなしに怒鳴りつけた後,母親がその理由を教え理解させるフォローをします。反省を促す繰返しが,わずかずつでも自制心を高め,やがて叱らなくても済むようになります。
 いじめの問題について考えてみましょう。集団による一人の子どもへのいじめはまさに「弱い者いじめ」です。弱い者の権利を犯さないという基準を乗りこえた重大な罪と言えます。いじめをしないという「自制の達成度」が個人として80%であっても,集団になると全く自制できなくなることははっきりしています。強力なリーダーによる統制が良い方に働くようならいいのですが,そのようなリーダーが育っていないとき,どうしても一人ひとりに対して100%の自制度を達成しなければなりません。
 いじめが問題として浮上してくる以前には,社会による補いが十分に働いていました。最近補い不足になってきたようです。一つには子ども自身の自制度が50%にまで減ってしまったために,どちらにもすぐに応答できるような不安定な状態になっていることがあげられます。ちょっと押してやると自制心は半分以下になってしまい,少々の補いではとても補いきれなくなっています。もう一つは,やはり地域,学校による抑止力という補いが弱まったことです。ですから両方を逢わせても50+10=60%程の自制しかできません。私たちはこの深刻な事態を考え直さなければなりません。
 まず子ども自身の自制度の低下はどうして起ったのでしょうか。例えば喧嘩について考えてみます。喧嘩をしても相手が泣出したら終りにするのがルールです。犬でも尻尾を下げたら争いを止めます。このルールは闘争心の中に本能的に組込まれていたはずです。ところが人類は長い間本当の意味での闘争をしていません。身体から沸上がる怒りがありません。それだけ自然から遠ざかっているのでしょう。こんな状況では本能的な種族保存の抑制は目覚めてくれません。人為的にルールを設けなければなりません。
 私たちの心にどのようにしてルールが確立してきたのかを思い起してみましょう。子どもにとって,すべての人に対し思いやりを持つことは不可能です。モデルを持てる自立状態にやっと足が届いている段階程度です。子どもができることは,モデルのようになろうとすることです。そういう努力をすることで,自我状態や群集状態に落込まなくて済んでいます。さて,子どもは社会の中に「男らしさ」を追求する風潮があり,弱者いじめは卑劣な行為として嫌われているということを知っています。喧嘩は一対一ですべきことで,集団で一人をいじめることは最も卑劣な,男として最低の行為です。「自分は男らしいか?」といつもモデルと対比する心が根付いています。地域にも卑怯なことが許されないという風潮があり,それを破った場合にはそれなりの制裁という罰があって,一方では男らしい行動に対しては栄誉が与えられました。種族保存の抑制が社会的な掟の形を取ってしっかりと働いていました。
 今の社会ではずる賢さがかっこ良く,うまく立回ることで得をすることが主流で,正々堂々とした行動は影を潜め,卑劣な行動という意識すら消え去っています。貧弱なモデルばかりが横行し,闘争状態の中でうめいている兆候が見えます。大きな人間がいなくなり,小さな人間がざわついているような感じがします。男らしさという概念を前近代的なものとして消し去ることに熱中するあまり,それに代るモデルを持たせられなかったことが,子どもにも分るような具体的モデルを失わせ,ひいては社会が課していた期待までも無にしてしまったようです。社会全体の健康回復が待たれます。
 地域の教育力の低下が至るところで指摘されています。この地域の教育力とは一体どのような力を言うのでしょうか。私たちが子どもの頃の地域の状態は,今よりもかえって非教育的な環境ではなかったかと思われます。一方で都市部よりも農村地帯の方が地域の教育力が強いとも言われます。こういった状況を考えてみますと,地域の教育力の正体は人と人,特に親同士の結びつきのようです。ことさらに教育的な結びつきではなくて,地域社会での普段の結びつきです。そのことがなぜ子どもにとって教育的で有り得るのでしょうか。
 子どもが川の土手で遊んでいますと,どこかのおじさんが
 「そんなところで何をしている?」
 「魚がいるかどうか探している」
 「そうか,鮒がいるかもしれんな。お前はどこの子だ?」
 「○○です」
 「そうか。○○さんとこの子か。草が濡れて滑るから気をつけろよ」
こんな類の会話が地域のどこでも聞かれました。どこかのおじさんが父のことを知っていると思うと,父の目がここまで届いているような気がして,注意してくれたことが父の言葉として素直に聞けます。地域の人たちが自分の家庭につながっています。よそのおじさんではなく,父の知合いのおじさんがたくさんいます。そんな地域の中で子どもはおもいっきり遊べます。
 この親のつながりは家庭での抑止力を地域にまで拡大します。誰かをいじめたとすると,その子はどこかで親とつながっているような気がします。子どもの社会よりも親の社会の方がはるかに広いことを知っています。そこで抑止力が働きます。父親の持つ抑止力が地域全体に拡大しています。また反対に作用する場合もあります。地域毎の結束が親のつながりに支えられてできあがります。ガキ大将集団も結局は見えないところで,親のつながりに支えられていました。
 このような親の結びつきは,私たち親が「奉仕状態」にまで成熟しない限り無いものねだりです。私たち大人は経済社会という協力状態の中で右往左往し,自分のことしか考えていません。会社と家庭だけに閉じ込もっているということは,変動状態や情操状態に落込んでいることです。成長が止ってしまっているということに気付かなければなりません。献血者率と非行者率という全く異質とも思える数字を対比させてみますと,献血が盛んな地域では非行が少なく,献血が低調な地域では非行が多いという相関関係が見られます。この事実はまさに私たちの未成熟さが非行に反映している証でしょう。温かさを持つ奉仕状態にまで成熟できた人たちだけが,拡大された家庭としての地域を作り出すことができます。砂のように個人がバラバラな地域には何も育ちません。互いにしっかりと手をつなぎ合った肥えた土のような地域にこそ,美しい花が咲きます。
 弱者いじめを無くすためには,100%の自制力が必要です。そのためには社会的な罰による抑止力を様々な形で作らなければならないでしょう。のんびりとしたいい加減な認識は,この問題については重大な過ちにつながります。