《第5章 子育てから子育ちへ》

【5.2】子どもたちの現状

 子どもたちの現状について述べておきます。様々な指摘がなされていますが,ここではいくつかの特徴だけをふれておきます。
 子どもは音楽が好きですが,好きな歌というよりも今一番流行っている歌を覚えようとします。ベストテンに引きずられて,皆がいいと言うからという理由が好みの世界,つまり一番個性を発揮しやすい領分に侵入しています。自分の好みよりも多くの他人の好みに合わせようとしています。〈共存状態〉や〈群集状態〉にあり,自分が好きな歌は自分が決めるという〈自立状態〉に届いていません。
 子どもが親に物をねだるとき,「皆が持っているから」と必ず言います。自分だけが欲しいのではなくて,皆が持っているような良い物であるという保証書を付けます。子どもが親にこういう交渉をしてくる背景には,「親も皆の考え方に従ってしまうはずである」という親の腹を見透かしているところがあります。親にも確かにそんな部分があります。行楽の季節になるとどこも人で混雑します。どこにも行かずにいると何か後ろめたい思いがすることはないでしょうか。多数の人が考えたり,していることが正しいという思いこみがあります。つまり多数決の原理が徹底しています。この論理の運びでは多数決の原理に濡れ衣を着せることになりますので,多少の弁明が必要でしょう。多数決の原理は集団全体としての選択を決定する方法であって,その構成員には集団全体を考えた上で判断し,その決定に参加するという条件が課せられています。ですから個人がなすべき決定を他人の多数決に依存してしまうということが間違っています。この点は誤解のないように気を付けるべきです。多数の決定に従うという形の上では同じ状況にありますが,個人がその決定に参加していないことが大きな違いです。
 いずれにしても自分の判断を全くしていないことは,価値基準を持っていないことを示しています。自分の判断ができないという弱点を多数派であるという権威で補おうとしています。このように自分を皆の中にはめ込んで多数派であろうとすることは,逆に見れば無責任であるということです。
 子どもたちが遊びながら物を散らかします。一人の子どもに「片づけなさい」と言うと,「僕だけが散らかしたんじゃない」と答えます。「どうして僕だけが片づけなければならないのか」とブツブツ言います。学校の廊下にゴミが落ちています。誰も拾おうとしません。蹴飛ばしていく子どももいます。注意すると「僕が捨てたんではない」と弁明します。掃除の時間にゴミを集めていますが,途中で終了のチャイムが鳴ると集めたゴミをそのままに放置して帰っていきます。誰もゴミ捨て場まで持っていこうとしません。どれもこれも「なぜ僕がしなければならないのか」,「僕の責任ではない」,そんな考え方をしています。多数派の中では,責任分担があいまいになってしまい,結局は無責任な集団になってしまいます。責任を取るのが嫌だから,多数派に隠れておこうとしているようです。
 家庭での生活学習について見てみましょう。今家庭生活が非常に便利になりました。便利になるということは誰でも手軽にできることですから,経験とか学習が不要であるということになります。私たち大人が子どもに対して大人であると誇れるものは「経験がある」ということです。ところが基本的な生活の部分,つまり親が子どもに対して親らしい経験的能力を発揮してみせる場が家庭生活の中に見あたらなくなっています。子どもの能力で十分に暮らしていけます。生活する技能は難しいものではなくなっています。「始めチョロチョロ中パッパ,赤子泣いても蓋取るな」という細やかな作業の手順など不必要です。私たちが持っている経験はその価値が消滅し,子どもの見えない場所,例えば会社などにしか残っていません。子どもは体験という新鮮な喜びを持てなくなっています。取り組んでみようという課題は新しいゲームの世界にしかありません。する事がなくてボッーとしています。無気力になっています。親にしてみれば子どもには「勉強する」という立派な課題があるはずですが,それとて子どもにとっては「何のために勉強するのか」,理屈としては分かってはいても生活実感を伴っていませんから,進んで取り組む気にはなれません。
 今の子どもは言われたことは上手にこなしますが,言われないと自分からしようとはしないと指摘されます。やる気がない,無気力だと責められていますが,やる気というのは冒険しようということですから,冒険してみようという困難な課題が無い生活環境の方にこそ問題があります。自分の生活にしっかりと根を生やした目標が無いから,夢を追い,皆が行くからと進学していきます。なんとなく流されていなくてはならない子どもたちに無気力という烙印を押すのは,いささか酷な気がして仕方がありません。
 さらに困った事態が重なります。子どもたちには自分の勉強部屋がありますが,お父さんには自分の書斎など贅沢です。世の中の情報はテレビ・ラジオが微にいり細にいり知らせてくれますし,親の話はおもしろくなく小言ばっかりです。子どもの世界は至れり尽くせりですが,それに引き替え大人の世界は貧弱です。子どもは今王様暮らしを楽しんでいます。これでは子どもとはどうしても思えません。親に向かって「オイ」と呼びかける子どもも現れています。家庭での食事も子ども中心,生活時間も子ども中心,一体私たち大人の生活はどこにあるのでしょうか。働くだけで良いのでしょうか。
 私たちが子どもの頃は,社会の出来事について親の話の中で親の考え方で聞く機会がありました。親が何を怒り何を喜び,何を悲しんでいるのか,親の生の声を通して分かったものです。子どもには分からない難しい話もあり,そんなとき大人ってすごいなと感動し,同時に自分には理解できないことがたくさんあることを知りました。ところが今は,生きた話は聞こえず,脚本化され演出されたマスコミ情報が取って代わってあふれています。喜怒哀楽を適度に刺激してくれるテレビは至れり尽くせりです。一方で悲しい気持ちになりかかっていると突然バカににぎやかなCMの奇声が襲いかかって来ます。日常生活の中で自分の世界がズタズタに引き裂かれているのに,それにどっぷりと浸かって安住し平気でいる大人たちを見て,子どもたちは「大人ってこの程度か」と高をくくっているように見えます。私たちが父の背丈を追い越した時でも「親父にはまだかなわない」と思っていたようには,今の子どもは思ってはいないのでは無いでしょうか。これでは大人になろうという気力や意欲は生まれようがありません。経験の積み上げを持つ大人を否定しようとしています。子どもにとって現在の生活は自分のレベルにちょうど合っており,不安もなくぬくぬくと暮らしていける最適な時代です。ただ自由になるお金がないことを別にすれば,大人などになる必要性を認めない子どもが増えて当然です。
 繰り返しますと,以前の社会では子どもを未熟なままで社会参加させ,その成長段階ごとに次々と課題を与え教育をしてきました。その課題は連続して切れ目が無く常により上位の目標を持てる状態でした。ところが現在は誰でも簡単にという販売戦略の前で未熟さは存在し得なくなり,子どもをいっぺんに生活可能なレベルに置いてしまいました。その結果,発達課題は消滅しました。教育的立場から考えるとき,画一化された消費享受型の社会では,連続した段階的発達課題が設定しにくくなっています。
 このような状況の下で,子どもたちは自分の目標となるべき大人が目標に値しない,あるいは自分がすでにモデルと対等になっていると錯覚しています。さらにこのことを助長するかのように子どもを「一人前」として扱うことが徹底し,親と子どもは友だち関係に成り下がっています。子どもが成長の段階として経験しておかなければならないこと,人を尊敬し,将来という時の流れを自覚し,努力を重ね,他人と協力して責任を分かち合い,挑戦を続けるという〈自立状態〉と〈協力状態〉を経験しないまま素通りしてしまっています。子どもたちが打算的であり,無感動になって〈変動状態〉に落ち込んでいる原因は,モデルの大人と対等であると思いこんでいることです。目標が持てない倦怠感から享楽的になって興奮に身を任せることに熱中し〈情操状態〉にも入り込んでいます。本来は年齢的にオヤジという壮年期に相当する状態にまで入り込んでしまっています。私たちの社会は協力状態にあります。そこでは責任を果たすことが求められているのに,そのような生活体験をしていないために,責任とは何かを知らないまま,無責任というレッテルを貼り付けられています。
 子どもが無気力・無責任・無感動になっている原因は,私たち大人の怠慢から子どもが自分を子どもと思っていないことにあります。王様暮らしをしていて,どうして気力が湧いてくるでしょう。大人のようにはなりたくない,このままでいたいと願う子どもたち,それが今の子どもたちの一般的な姿です。
 将来の大人,つまり小さな大人として扱い育てようとする意識が過剰になって過保護になり,王様暮らしをさせた結果が子どもらしくない子どもを育ててしまいました。子どもが自分で育たなければ,表面化した問題は無くなりません。