《第5章 子育てから子育ちへ》

【5.3】子どもは子ども

 これまでに,子どもたちが多数派の陰に隠れて無責任となり,便利な生活の中で無気力になっていることについて述べてきました。この他に無関心・無感動など多くの特徴が挙げられます。このようにいろんな形で現れてくる子どもの姿は「子どもらしくない」という一言でまとめることができるでしょう。明るく元気で,少しもじっとしていずに,何かしてやろうと瞳をきらきらさせて,勉強でも遊びでも時間を忘れてやろうとする,そんな姿が子どもの姿ではないでしょうか。
 子どもらしくない子ども,変にませた子ども,「親を見りゃ オレの将来 しれたもの」と詠むような子どもが育っています。そこで私たちは子どもをどのように捉えたらよいのか考えなけておかなければなりません。
 一つのとっかかりとして,学校について考えてみましょう。子どもにとって学校教育の場はどのような意味があるのでしょうか。PTAなどの教育団体が目指している健全育成の目的に何と書かれているでしょうか。子どもたちが将来健全な社会人になるために学校で教育を受け,家庭・地域社会で育てられるという指導があります。「将来の大人として」という考え方で子どもを見ています。ここに私たちが落ち込んだ落とし穴があります。
 「学校とは子どもが将来の大人としてではなく,何よりもまず子どもとして生きることを学ぶ共同社会である」と言われています。つまり,学童期の子どもは自分を子どもとして自覚し,子どもとして生活しなければならないということです。私もそうですが,サラリーマンの将来には定年があり退職します。今私たちは将来の退職者として勤めているでしょうか。より健全なお年寄りになるために,今努力しているでしょうか。どんなにジタバタしたところであと何年と将来を見極めてしまえば,おそらく無気力になるでしょう。実際はそんなことは考えずに,毎日を精一杯生きています。同じように子どもたちも子どもとして今日一日を精一杯生きていきたいはずです。
 それなのに親は子どもを大人の予備軍と考え,将来将来と子どもを脅迫します。もちろん将来のことを全く考える必要はないと言っているのではありません。将来への目標を持つことは生きることですから大事なことですが,その目標を実現するためにはまず足下を確かなものにする必要があるということが言いたいことです。オタマジャクシはオタマジャクシの,青虫は青虫の生活を生きるから,カエルになりチョウになれます。まず私たち大人の子ども観から反省を始めなければなりません。
 子どもを育てる場合に忘れてはならないことは,「子どもが育つ」ということです。プラモデルのように親が望むような価値をくっつけていくことはできません。子どもは生きています。生きているから栄養を摂取し自ら育っていきます。世の中がどんなに変わっても,母親のオッパイを飲み腕白でいたずらで,時には反抗し,やがて恋をして,結婚し,子どもを育てるという繰り返しは基本的には変わりません。親が持つ体験や知識をそっくり子どもが受け継ぐことはできません。子どもは常に0から出発しなければなりません。自分で育つことが生きていくということです。
 馬を水飲み場に連れていくことはできますが,馬に水を飲ませることはできないという有名な話があります。馬が水を飲みたいと思わなければ,いくら尻を叩いたところで無理です。私たちの子育ても同じです。子どもが育とうという意欲を持たなければ,いくら側から強制しても無駄です。
 私たちは子どもを育てようとする意識が強すぎて,子どもが育つという面を見落としています。ですから,子どもを子どもと認めず,子どもが育つための条件を知らないうちに取り上げてしまっています。人間の成長は「0からの出発」であり,子どもは子どもらしく未熟な子ども時代を生きて成長ができるのです。