《第6章 子育てルネッサンス》

【6.1】好きこそものの上手なれ

 昔から好きこそものの上手なれと言われています。好きな芸事は本人がしたいと思っているから,真剣に練習に励み自然に上手になるということです。何かをやろうとするとき,自分からしたいと思えば必ず成功します。
 山登りは「山がそこにある」だけではできません。山登りが好きで,山に登りたいと願うことが必要です。登りたいと思っているから,大きな荷物も苦になりません。登りたいと思わない人にとっては大きな荷物が苦痛であり,あんなに重い物を背負って何が楽しいのかと考えるのが関の山です。
 教育は何故だろうと思わせられたら9割方成功だと言われます。何故だろうという好奇心は,次に知りたいという欲求に転化するからです。知りたいと思えば放っていても自分で調査研究をします。後はヒントを与えるだけで学習は十分に進んでいきます。
 空を飛びたいと思って飛行機ができました。向こうの島に渡りたいと思って船ができました。物をたくさん作りたいと思って工場ができました。気持ちを伝えたいと思って電話ができました。一緒に暮らしたいと思って家庭ができました。このように私たちはしたいことをするものだということを思い出しておきましょう。
 でも現実はそんなに甘くはないと言う声が聞こえてきます。仕事をしている大人は月曜日の朝がつらいと思うのが普通でしょう。ゆっくりと寝ていたいのに仕事に行かなければなりません。したいことよりもしなければならないことが優先します。世の中はしたいようにはさせてくれないものです。ところでゆっくりと寝ていたらどうなるでしょう。会社を首になり,給料が入らず,家族ともども路頭に迷うことになります。どうしても家族を守るためには働かねばなりません。子どもを育てなければならないと親が思えば,「こんなに苦労して育てているのに勝手なことばかり言って」と愚痴っぽくなり,あげくはその苦労の見返りに親を養わなければと子どもに強制することになります。苦労ばっかりの連鎖は気が滅入るばかりです。悪循環から脱出しましょう。
 私たちは一体何のために働いているのでしょうか。家族を養わなければならないからではなく,家族を養いたいと願うからです。朝ゆっくりと寝ていたい自分と家族を養いたいと願う自分とが衝突したとき,「起きなければ」という強制的な理由付けを持ち出します。家族を養いたいという願いは大変なストレスの代償を伴います。だからこそ得られるその喜びは大きいものです。それが分かっていながら労力の負担だけが感じられるために,克服するためのしなければという社会的な責任感を自分に課します。家族への愛情が豊かな人は個人的な欲望を押さえ込むことができて,苦労を苦労と思わずに楽しく仕事に打ち込めます。一方家族への愛情が薄い人は責任感という強制力を借りなければならず,苦労を心の負担と感じてしまいます。家族のために犠牲になっているとさえ思うようになります。
 自分にとって家族が負担になっているとしたら,それは愛情の未完成を表しているということです。愛情豊かになるように心を育てないと,きっと不幸な人生を送ることになります。一つの試金石は「家族が死んで一人になったことを想像してみる」ことです。耐えられないほどつらい思いがするはずです。もし清々したと思うようなら,人生を誤っています。やり直すか,修復するか,心のリストラが必要です。
 愛し合う男女が共に生活をしたいと望むから結婚し,愛の結晶として誕生した子どもを共に育んでいきたいから家族が生まれます。連れ合いと子どもを愛しているから生まれた制度です。いつまでも愛し続ける努力をすることが心の成長なのです。結婚がゴールと錯覚したら,愛の成長はストップし〈奉仕状態〉に止まるか〈劣情状態〉にはまります。家族とは愛さなければならないというものではありません。そうであるなら「自分は相手をこんなにも愛しているのだから,相手も自分を愛してくれなければならない」と思うようになり,形だけの愛に成り下がります。〈愛情状態〉とは愛の代償を求めている間は達成できません。それが分かっていながら愚かにも相手に求めてしまうのが私たち凡人の悲しさですが,せめて家族との間は本当の愛情状態で結ばれるように成長したいものです。
 子育てにおいても同じようなことが言えます。子どもは成長したいと願います。もちろん親が魅力的な大人であることが必要条件です。親が嫌々仕事や家事をし,嫌々子育てをしているのを見せられると,子どもは大人になろうとは思いません。子どもが憧れるような豊かな大人の世界を見せるべきです。子どもに早く大人になりたいと思わせられたら,子育ては成功しています。大人になるためには勉強も必要です。張り切って学校に行きます。しかしいつも学校に行きたいと思うわけでもありません。寒い日は行きたくないと思うでしょう。そんなとき学校には行かなければならないという強制が必要になります。またいじめっ子がいるときなど,どうしても学校に行けなくなることもあります。そんなとき行かなければという強制との葛藤のために身動きが取れなくなる所まで追いつめられます。そんなときは行かなくてもよいと強制を取り除いてやらなければ,心が壊れてしまいます。逆に学校に行きたいという思いが強ければ強いほど,行かねばならないという強制は不要になります。給食と遊び時間が楽しみで,ついでにちょっと勉強するといったことでもとりあえずはいいでしょう。人はしたいことができれば前向きになれます。育てるこつはしたいことを見つけてやることです。楽しい学校の条件は休み時間を安心してしたいことができるように設定してやることです。いじめのようなマイナス要因は休み時間にはびこります。休み時間をもっと大切に考えてみるのも事態の好転には有効でしょう。
 明るく楽しい家庭は与えられるものではありません。山に登りたいなら重いリュックも気にならないのと同じように,温かい家庭を願うなら大抵の苦労は気にならないはずです。苦労が気にならないから温かい家庭になれるのかもしれません。したいようにすることが私たちにどんな力を持たせてくれるか,もう一度思い出してみましょう。