《第6章 子育てルネッサンス》

【6.2】くれない族

 くれない族という流行語がありました。あれをしてくれない,これをしてくれないと言い挙げる人を指す言葉です。最近では聞かれなくなった言葉ですが,くれないと嘆く人は後を断っていません。
 大学で定期試験をしくじって単位を落とし落第した学生に理由を尋ねると,「講義の時間に先生がここは大事だから覚えておくようにと試験対策をしてくれなかったから」と答えます。自分の責任ではなくて先生が合格されてくれなかったと、真面目な顔をして言います。大学に入学するまでは,親や先生から「ああしなさい,こうしなさい」と育てられてきた子どもたちは,大学に入学した途端に「あなた方は一人前です」と突き放されてどうしてよいか分からず呆然としています。自分で考える術を身につけていません。誰かに指図されることに慣れて,〈自我状態〉に止まっているからです。
 また先に述べておきましたように,子どもたちは自分の好きな歌を選べずに,流行っているというお墨付きのある歌を選ばされています。一番個性を発揮できる所まで,価値判断を放棄して他人におんぶしています。〈自立状態〉とは難しいことではなくて,自分が好きな歌を自分で選び出せるということです。
 くれない族の起源を探っておきましょう。私たちは生まれてすぐは親の手厚い保護の下で育ちます。甘えは〈対立状態〉です。お腹がすけばオッパイをふくませてもらえます。おしめが濡れたら換えてもらえます。抱いてあやしてもらえます。自分の気持ち・欲望を満たしてくれる人として,初めて認識する人が母親です。母親とは何でも自分のためにしてくれる人と覚え込みます。私たちが抱く人間意識はこの「してくれる人」から出発します。やがて自分に対して「してくれない人」もいることに気づきます。してくれる程度に応じて,いつもしてくれる母親,ときどきしてくれる父親や兄弟,全くしてくれない他人という識別ができるようになって,人見知りが始まります。自分の願いを満たしてくれる人ほど親密感をおぼえます。このまま育ちが停止すると,自分のために何かをしてくれることが当然なことと錯覚し,大人になって「くれない族に」なります。
 中学生が最も嫌う言葉は「勉強はしたの?」という親の言葉だそうです。そこで先生が親に止めてもらうように頼もうかと言うと,子どもは反対するそうです。言われなくなったら勉強しなくなるというのです。大学に合格した子どもは尊敬する人として母親を挙げます。母親がついてやってくれなかったら合格できなかっただろうという理由です。もし合格できなかったら母親が十分にやってくれなかったからだと責め立てることでしょう。感謝と尊敬の区別ができていません。
 くれない族は自分と他者との関係で「してもらう」ことに判断基準を置いています。赤ん坊の認識のままです。学校に遅刻したら「お母さんが起こしてくれなかったから」と言い訳します。大人でも浮気をしたのは連れ合いが構ってくれなかったからだと自己弁護に走ります。いろんな行事を企画する人からは参加してくれない,協力してくれないという嘆きが聞かれます。〈対立状態〉の甘えから脱皮しなければなりません。
 人は自分にしてくれるものだという甘えの前提があるから,くれないことを不満に思います。一度「他人に迷惑をかけない」という自己抑制を働かせて〈孤独状態〉に飛び込めば,人が自分にしてくれることに感謝することができます。不満を持って暮らすより,感謝して暮らす方がどれほど幸せでしょう。100点を前提にして減ったことを嘆くより,0点を前提にして増えたことを喜ぶ方が楽しいでしょう。
 成長とは0からの出発であると述べておきました。くれないという0を自然だと考えることです。子育てにおいて最初のステップは,赤ちゃん時代のしてくれることが当たり前という意識を払拭させ,くれないことが普通なのだということを徐々に且つしっかりと教えこむことです。0からの出発が成長の出発点であると自覚させることです。つまり,成長とは〈孤独状態〉から始まっているということです。
 ここでも父親に大切な役割があります。子どもから母親を取り上げるのが父親の役割です。父親がいると母親が子どもから離れて自分を構ってくれないときがあると感じさせます。徐々に母親は父親に寄り添っていきます。子どもにとって父親ははじめて出会う恋敵でなければなりません。なぜ母親は自分より父親の方に気が向くのか無意識のうちに考えます。父と母の結びつきの強さに自分の母子結合が負けたと分かった後,それでも母親はなお自分にもいろいろとしてくれます。一度突き放されるから,してくれることをありがとうと感謝できます。感謝の目で見れば,自分にしてくれるとき母が何かを犠牲にしていることを察することができ,それが母の愛であると感じます。こうして,くれないことよりしてくれたことの方を強く意識するようになります。この転換が大事な体験です。この経験がやがて自分の方からしてあげるという意欲に発酵していきます。くれないと嘆いてばかりでは,してあげるという前向きな気持ちにはなれません。たとえ何かをしてあげても,お返しがないと折角してやったのにと恨みがましくなります。例えばバスの中で席を譲ってあげたのにお礼も言われなかったと立腹するのも立派なくれない族です。
 最近の子どもは我慢することができないと言われています。しかし,昔の子どもが我慢強かったわけでもありません。昔の子どもである今の大人を見れば,消費社会の中で決して我慢強いとは言えない例がたくさんあります。我慢できたのは,それなりの時代背景があったからです。物の無い時代には物が持てなくても,持てない方が普通ですから我慢できました。0から見ています。ところが今は物を持てる方が普通という意識があるから,持てないことが我慢できなくなっているのです。つまり意識として贅沢品は持てなくても我慢できますが,必需品は持てないと我慢できないということです。
 子どもたちが何かを親にねだるとき,「皆が持っている」と言います。持っていることが普通なのだと言っています。親の方は贅沢品と思っているから「ダメ」と拒否します。子ども自身が贅沢品だけど欲しいという気持ちであれば,やっぱりダメかと諦めることができますし,どうしても欲しければ小遣いを貯めても手に入れようとします。しかし今の子どもが必需品だから持っていなくてはならないと思いこんでいるのなら,親をにらみ,不幸を嘆き,寝転がって泣き叫びます。子どもにとって自分の存在に関わるほどの大事なことであり,仲間はずれにされる恐れを感じているのかもしれません。さらに必需品は親が与えるべき物と思っていますから,自分の小遣いで買うなんて思いも及びません。当然持たせてもらうべき物を持たせてくれないと恨みます。我慢をしなさいと言っても我慢できるものではありません。
 たとえ自分一人が持っていなくても,本当に自分にとって必要なものかどうか考える力を持たなくてはなりません。皆が持っているということは一つの条件ではありますが,だからといって自分の判断をしなくてもよいというわけではありません。家庭を見渡すと洗濯機・冷蔵庫・カラーテレビは皆が持っているので,必需品と言えるでしょう。ところがジューサー・餅つき機・ミシンなどは倉庫の占有物になっています。あれば便利といった程度の価値評価では無くても不自由しないということです。はっきり言って必要なものではないから活用されず,埃をかぶっています。贅沢品をあたかも必需品のように思ってしまう早とちりを反省しなければなりません。
 くれない族から脱退する方法は,自分を0から出発させることです。人に寄生しておこぼれを待っているのではなくて,何も持たない孤独な自分を知り,一つ一つ自分の判断で積み上げていく生活をすることです。家庭の出発点である結婚も,鍋と茶碗とテーブルから始めるから生活が未来に開かれていますが,すべてが揃った所から始めようとするとき生活は終わっており破局しか残されていません。離婚が多いのは出発が間違っているためにくれない族になっているからです。無くて当たり前という所から出発しなければ,人生は前に進めません。学問は無知を知るところから始まると言われています。ここにも0からの出発があります。だからこそ自分の考えで真理を展開していけます。
 私たちの人生も,子どもたちの人生も,0からプラスしていく努力の連続です。1点ずつ加えてゆかねばならない長い旅路であり,そして誰も100点満点は取れません。いつもし残しているからこそ,生涯を通じて人は希望を持ち続けることができます。あれをしてくれないから1点減点,これもしてくれないから1点減点,こんなことを繰り返していてはいつまでたっても0点から増えません。また減点ばかり続けられるほど,私たちは最初から持ち点を与えられているわけでもありません。
 すべての尺度は1点ずつ加算する目盛りを持っていることに気づくことは,人が生きていく上で大切な知恵です。