《第6章 子育てルネッサンス》

【6.5】平凡こそ糧

 幸せな両親,生き生きとした親の姿を見せてやれば,子どもは大人っていいなと明日への希望に向かって育とうとします。大人が疲れた姿を見せ愚痴っぽい姿を見せれば,子どもはお先真っ暗と成長を拒むでしょう。これが家庭での子育ての初めであり終わりです。ところが,子どもには成長のある時期,親を批判的に見ようとすることがあります。仲の良い親を見て大人気ないとか,みっともないと思ったり,訳もなく手がつけられなくなったりします。親の影響から逃れようと反抗したり,親の力を試したり,いろんな形で突っ掛かってきます。このようなときには,親は大人の本当の実力を示さなければなりません。生きていくうえで必要な責任・義務・権利とか,仕事や家族の意味といった目に見えにくい価値をそれなりに提示する努力が求められます。大人は苦労ばっかりと思わせるのではなく,苦労の中からどんな喜びが生まれているのかを教えることです。
 子どもたちはカレーライスやハンバーグ,焼き肉などが好きです。夕食前には必ず「今日のおかずは何」と尋ねます。子どもにとって食事とはおかずのことです。副食だけが意識され,主食は無視されています。おかずは種類も豊富で多様な味が楽しめます。味覚という快感を刺激してくれます。主食であるお米やパンは味もそっけもありません。おいしくないからそっぽを向かれます。
 子どもたちはおもしろいことが好きです。刺激を求めます。ところがこの刺激とはまことにやっかいな代物で,より大きな刺激を求めさせるような魔力が潜んでいます。いわゆる泥沼のような中毒症状を伴います。欲望を満たすために次から次へと刺激を受け入れ続ける恐ろしさは,至るところにころがっています。子どもたちのみならず若者も大人でさえ,飽食という中毒状態にあるようです。面白いことが見つからないと,「あいつ何となくむかつくな」といじめという刺激を作り出したり,スリルを味わうためにだけ大して欲しくもない物を万引きしたりと,より強い刺激に向かっていきます。
 ここで思い出しておくべきことがあります。主食であるお米は味もそっけもないと述べました。しかしもしもお米に味があったらどうでしょう。とても毎日は食べられません。すぐに飽きてしまいます。味がないことは欠点ではなくて,長所なのです。味がないから主食となり得ます。主食の味のなさはさらに大事な役割を持っています。おかずを食べた後にご飯を食べることで味覚を無色に戻し,味覚のリセットをしているのです。薄味を感じることができるということです。おかずだけでは前の味を打ち消すためにはより濃い味が必要になり,味音痴になります。
 このお米のように,刺激がないことが大事な点です。面白くもおかしくもないことこそが大切なことです。子どもにはそのことが分かりません。地味で目立たない暮らしをしているから,ちょっとしたことに感動することができます。子どもが無感動になったのは,この平凡な暮らしから浮き上がってしまっているからなのです。
 太閤秀吉の側近に曾呂利新左衛門という人がいました。秀吉のお気に入りでいつも楽しそうに話をしていました。ほかの側近たちがどうしてそんなに秀吉に気に入られているのか尋ねました。新左衛門は「お前たちは菓子は好きか」と問いました。「それは好きだ。美味いから」と答える側近に,「それじゃ毎日菓子を食え」と続けました。すると「毎日は食えない。飽きてしまうから」という返事に,新左衛門は「それだよ。お前たちは太閤に毎日菓子を食わせようとしている。おれは米の飯を食わせているんだ」と教えました。
 親の暮らしは平凡で刺激はありません。しかしながら,その生活こそが大事なものであることを,子どもにしっかりと伝えなければなりません。これが本当の生活だという大人の知恵を教えてやらない限り,子どもの足を地に付いたものにしてやることはできません。平凡な暮らしが一番安定し,一番素晴らしく,一番幸せなものであると親が自覚していれば,きっと子どもにも分かるはずです。幸せな家庭というものは決して刺激に満ちた家庭ではありません。ちょっとした思いやりに感激し,ちょっとした気配りに感動できるのは,そんなごく平凡な暮らしを楽しんでいるからです。野に咲く小さな花を美しいと感じられなければ,どんなに高価で珍しい花でもその美しさを分かるはずはありません。幸せもまた刺激が0の暮らしから得られるということです。0からの出発なのです。