《第7章 終わりの章》

【7.1】しつけの目的

 子育て心温計の説明をしてきましたが,そろそろ心温計が目指している目的について述べておかなければなりません。
 初めに言葉の選別を試みてみましょう。次の言葉の対でいずれが好まれる言葉でしょうか。
   〇美しい:汚い
   〇温かい:冷たい
   〇明るい:暗い
   〇善い :悪い
選ばれる言葉の後に「行い」とか「人」という言葉をくっつけると,美しい行いは好まれ,悪い人は嫌われるはずです。この好き嫌いの感情には大事な意味があります。これがしつけの目的なのです。つまり適量の食事をバランスよく摂取するために,人は美味しく食べる味覚と満腹感という感覚を働かせています。同じように社会的な行動に対しても,感覚的な尺度を持てるはずです。よい行動をすることが気持ちがよくなるという感覚です。そこで,

 「しつけとは善い行いを好きになり,悪い行いが嫌いになるような感覚を身につける働きかけることである」

と言うことができます。理屈だけではなく感情の上でも悪いことを避け,善い方を求めたくなる気持ちを植え付けることがしつけの目的です。そのことが人間としての成熟した姿です。
 私たちがしているしつけを振り返ってみると,子どもが着ている理性という服をちゃんと着なさいとか短すぎるといじくりまわしてばかりいるようです。夏休みの生活のきまりなどルールを押し付けることに汲々としています。しつけという言葉が着物に由来しているからと言っても,あまりに正直すぎます。裸の人間を育てるのが子育てであるはずです。だとすれば,人間の持つ感情にまで入り込まなければなりません。骨身に染み込ませるとはそういうことだと思います。理性という服は時代と共に変遷していきます。社会の流れにしたがって色も形も変化します。しかしそれを着る人間は時代によって大して変わりません。形が少し大きくはなっているようですが,感性の面では大差ありません。考え方とか価値観は変動していますが,感情は安定していると言うことができます。このことをもっと意識した方がいいでしょう。もちろん感情を育てる必要がないというわけではありません。
 社会生活には「人の権利を犯さないこと」と「人に迷惑をかけないこと」という二段構えのルールがあると述べておきました。これは全員が守らなければならないルールです。このしなければならないという強制は,頭で考えて理性でコントロールするということです。子どもに対する知育偏重が問題になっていますが,親の方も知識つまり理性万能主義に陥っています。万能とは善くも悪くも力をもたらすということです。人の物を盗みたいと思っている人は,理性による正しいルールを守る気がありません。それどころか泥棒にも三分の理という屁理屈を持ち出すことができます。ルールは守る気のある人にしか有効ではありません。「ここにゴミを捨てないでください」という看板が立てられていますが,それでもゴミが捨てられます。捨てる人は「人が見ているときは」という言葉を勝手に付け加えているのでしょう。
 迷惑をかけないというルールを有効にするために,理屈を構築することが必要条件ではありますが,迷惑をかけると気持ちが悪くなるという十分条件を忘れてはいけません。悪事をしてはいけないと理性で判断するだけではなく,悪事を憎む気持ちを持たせなければなりません。してはいけないと説得すると同時に,したくない気持ちを植え付けることがしつけです。叱る行為の意味は悪事を止めるきっかけを与えることと,叱られることで嫌な気持ちになる体験を与えることです。したくないことはしないものだという人間の感性を思い出し,しつけに生かさなければなりません。迷惑をかけないという柵がほころびているのは,この感性の発育不全のためです。説得によるしつけが時に無力なのは,感性という根が切れているからです。
 子育て心温計の健全育成部(右側)において,無法状態・対立状態をそれぞれ憎悪感・嫌悪感に関連づけているのは,悪に対して憎しみや嫌いという気持ちを持つことが健全であると考えているからです。悪事,人の権利が犯されていることに腹を立てるようになってほしいのです。すべきではないと考えるだけでは抜け道を考え出します。感情的に憎しみを引き出せるようにならなければ本物ではありあんせん。
 ひろさちや氏の本に登場する兄弟の話があります。兄が友達の家からケーキを一個貰ってきました。母親が「弟と分けて食べるように」と言いました。二人が仲良くケーキを食べているところに父親がやってきて,「なぜお母さんはケーキを半分ずつにして食べなさいと言ったんだろうね」と兄弟に尋ねました。兄は「弟がかわいそうだから」と答えました。恵んでやらなければならないという考え方です。道徳的に分けるべきだという強制があります。ですから貰う方には頭を下げてお礼を言わなければならないという強制が働きます。当然という態度で受け取れば,もう二度と分けてやらないという結果を生みます。一方弟の方は「僕が貰ったとき,お兄ちゃんに半分あげるから」と答えました。お兄ちゃんが「この前ケーキを分けてやっただろう」と言い出すことが分かっています。頂いたらお返しをするのは生活上の慣習です。返礼が無いと礼儀知らずということになります。ケーキを貰うことに押し付けがましさを感じます。そこで父親が兄弟に言いました。「お母さんがあなたたちに願っているのは,一つのケーキを兄弟で半分ずつに分けて食べて,その方が美味しいと思える子になってほしいということなんだよ」。親が願っているのは,兄が「半分にして食べようね」と言い,弟が「うん」とにっこりし,二人で食べながら兄弟が「美味しいね」と楽しく食べている姿です。そこには,分けるべきであるとか,お返しはしなければならないという思いを越えるものがあります。兄弟がしたいようにしながら,それでいて道徳的にも社会的慣習にもピタッとおさまっています。これが兄弟仲良くということの意味です。約束事は人間関係を紡ぎ出すレールに過ぎません。心という感情を育てることが大事なしつけです。
 バスに乗っていて「気の毒だから席を譲ってやったのに,ありがとうの言葉も無く座っている。けしからん」と思うのは,お仕着せの慈善にすぎません。かわいそうにと思うから席を譲るのではなく,相手に座ってもらう方が自分はきついけど気持ちがいいから譲るようになりたいものです。人に楽をしてもらうことが気持ちがいいというのが,子育て心温計の〈愛情状態〉です。
 このように考えてくると,心豊かな暮らしをするためにこそ善悪という道徳があるように思えます。しつけの目標は心豊かに生きていく方法を身につけることです。窮屈なしてはいけないとか,すべきだという道徳律を教えることが最終目標ではなくて,道徳に沿った生活こそが豊かな暮らしであると願う気持ちを抱かせることが最終目標です。
 孔子が言っている「己の欲する所に従って規を越えず」という言葉は,したいようにしていながらきちんと社会の規則に合っているといことです。先人の心根を知識として持っているだけではなく,自らの知恵に会得しなければならないでしょう。
 繰り返しておくと,子育てとは人の役に立つ善い行いを好きになり,そうしたいと願い,人の迷惑になる悪い行いを憎み,自分はしたくないと拒否し,悪を怒る感覚を身につけさせる働きかけです。理屈や説得だけでは子どもは育てられません。感性に裏打ちされてはじめて,親と子の血の通った絆が結べます。子育ては本能です。眠っている本能を呼び覚まして,親の温かい心を伝授する子育てを取り戻して頂きたいと祈ります。