《第7章 終わりの章》

【7.2】信じるゆとり

 マスコミをにぎわす青少年の非行,弱者いじめ,しらけ,ピーターパンシンドローム,シンデレラコンプレックス,モラトリアムなど,価値観の多様化という混沌が紡ぎ出した矛盾が,子どもの人格に伝染しています。一方で情報化が進んで社会の連携がますます密になっています。世界の拡大と技術の進展が急激なあまり,次々と登場してくる未知なものとの遭遇に驚き,それを知ろうとすることに追いまくられ,自分でじっくりと考える時間を持たず,いつも何かに流されているような不安感が漠然と心を覆っています。皆がするからという自立性のない行動要因に突き動かされ,自分が本当は何をしたいのかという自己欲求さえも知ることができず,日常生活にあふれている商業主義的な押し付けがましさの波に呑み込まれています。
 タレントが離婚しました。何故かという情報が流されます。真相は分からず結局は価値観の違い,感性の問題といった所に収斂します。結婚する二人がいます。相手のどこに魅力を感じたのかと尋ねられます。あの人が嫌いです。なぜ嫌いなのですか。災害現場からの痛々しい被災者への「今どんな気持ちですか」という無礼なインタビューが流されます。人の心を覗き裸にしなければ気が済まないかのような風潮は,知る権利という御旗の下で,分からないものが存在することを許さない傲慢さと,他人の思いを察する優しい心を持ち合わせていない欠陥とが同居しています。人間はあまりに知ることに貪欲になり過ぎて,理由なきものすべてを拭い去ろうとし,未知な存在を否定し無知であることを恐れています。知ることのみに追いまくられ,自分で考え肌で感じようとする意欲が消滅しています。
 知らないということが恐怖になっています。その裏返しとして,理性で証明できないことに価値を認めようとしません。知性が渦巻く生活の中で,心が満たされていないと感じてしまうのはなぜでしょうか。昔の人は知らないこと,分からないことがあるのは人間が未熟であるからであって,決して自分の責任ではないと考えていました。その代わりに人間を超越したものを信じることによって,その不安を解消して生きてきました。つまり人知では証明できないものを単純に恐れ排除してしまうのではなく,あくまでも身近に置いておく余裕や大らかさがありました。人知が成熟するまで大事に温存しようとしていました。例えば魂は身近にありました。目に見えない透明な衣であっても,それを身にまとったときとそうでないときとでは,温かさにはっきりとした違いがあるはずです。私たちが放り投げていつしか見失った衣は,どこにあるのでしょう。いまそれを見つけだしておかなければ,その存在すらも忘れられて,子どもたちは裸の王様になってしまいます。
 先人たちが持っていた絶対者としての存在,神様,お天道様,ご先祖様,世間様は,ことごとく消え去っています。絶対者に対する過去の偏愛が裏切られた後遺症から過敏な拒否反応をしている面が散見されます。理性の輝きに目を奪われて幽霊といった観念的な存在を否定したときに,観念によって支えられていた人間の存在価値も崩れてしまいました。森羅万象すべてが理性の範疇に押し込まれ,人間の存在や行動とてその例外ではないはずだという信念の下で,あらゆることを分解し分析し,その論理の力で判断を下そうとしています。
 子どもの自殺には何か理由があるはずだと分析しまくります。もちろん解明も必要ですが,最後には分析不能な心が残るという人知の限界を弁えておかなければなりません。
 私たちが心のどこかで探している豊かさの空白は,証明できるような軽いものではないようです。価値観の多様性とは価値尺度の混乱です。一人一人が自分だけの物差しを使っていては,社会は混乱するばかりです。社会の安定化の要件は価値尺度の共通性です。満たされない思いは共通な価値尺度を失ったことによるものと思います。論理体系の一つである数学は公理によって組み上げられますが,公理は証明されたものではなく信念です。最も原点は信ずることから始まっているのです。信念とは理屈を越えた確かな存在感を賦与されたものです。人が今の地球に生きている人類の一人であるという事実の必然性は分かりようがなく,無限の偶然の連鎖です。親のどちらかがもしちょっとした弾みで別人と結ばれていたら,私という存在はなかったでしょう。この偶然を溯れば論理的考察はあっけなく拒否されます。歴史にイフはないと言われるのは,論理が成り立たない領分だからです。人間存在の必然性が検証不可能である以上,「私はどう生きたらいいのか」という問題も理屈抜きで信じるしかありません。では何を信じたらいいのでしょうか。それは歴史の中に生きた先人たちに学ぶしかないようです。まず自らが無知であることを認めて,その上で信じるものを持って心豊かに生きていた先人から学ばなければなりません。心の豊かさは信じるゆとりを持つことです。