【7.3】未来志向
子育てにおける親の基本的な役割は,次の世代に夢と期待を託し,そのための捨て石になり肥やしになる覚悟を実践することです。大きく言えば,人類が発達し繁栄していくという生物学的な命題に関わっていくということです。しかしながら,近世以降人は自己の繁栄と享楽をのみ求める傾向が強まり,生けるものとしての役割を忘却しているように見えます。子どもは要らないという言い方,生活にゆとりができたら子どもを産むという考え方は,次世代をないがしろにする破滅的思考です。文化は伝承されてこそ文化であり得ます。途切れたら遺産に祭り上げられます。
いつの時代にも新しい文化が芽生えます。しかしそれは旧来の文化にしっかりと根を張った芽生えでした。温室で育てられた新種は,自然界の中で生き延びる能力を試され,環境との適合性を獲得したときはじめて新種として存在価値を付与されます。豊かな環境は温室的です。自然を恐れ温室暮らしに慣れて久しいために,温室が自然であると勘違いしています。温室の特徴は限られた環境性です。自然の多様なパラメータを人為的に一定に設定しているからです。学校と家庭という温室で育った子どもは,社会という自然界に入ると途端に環境アレルギー状態に陥ります。快適な部屋から外に出た途端に体調を崩すようなものです。
失われた自然生活は,生き物が環境に生かされているという原則を無効にしてしまいました。温室の中にいる豊かさであるために,自然環境の中での豊かさとは違うという本能的な危惧を感じています。暮らしが豊かでも心が満たされない原因は,自然から浮いている不安定さにあります。直裁に言ってしまえば,人が死の認識を無くしてしまっているということです。自分が有限であり,有限であるが故に生物として自然の一部たり得ているという認識です。生物集団の一つの輪であり,環境との関わりに生かされているという形で自然の一員に過ぎないのです。
種々の宗教は死と直面せざるを得ない有限な人間の心の救いを主命題にしています。死と向き合うから宗教に生を求めていました。現代人の無宗教性は死と直面しなくなったからでしょう。西洋哲学では身体は滅してもなお不変不滅なるものを探し求めて,理性に到達しました。この理性の流れが科学です。しかしそこにはもはや生物といった概念は矮小化されていきました。科学の根本原理が全て永久不変な真理であることからも分かるように,不滅であることが根本の価値になりました。近代化の進展とともに死の概念が迷信化され遺棄され,それに伴って対称概念としての生の価値概念も自然消滅しました。当然宗教的哲学も衰退してしまいました。現在の多忙な日常生活は理性が主導している世界です。この無生物的な考え方の中で,死との直面を恐れる人間は心のつかの間の安住を得ています。いつしか死そのものを忘れ,死の意味を見失い,死を無価値と蔑んでいます。なぜならあらゆる知識を動員して生にのみ執着しているからです。
科学が進歩しあらゆる英知が実現されているように見えるのに,こと生命の有限さには抗すべき術を持てない人智の限界を思い知らされることが,現代人の自尊心には大いに不愉快なものなのかもしれません。人間が快楽を求める気持ちの底には,生への歓喜と死への恐れとが表裏一体になっていました。死に直結する飢えから脱出するために,豊かさを追い求めてきました。豊かさを手中にしたと感じる今,何のための豊かさであったのか思い出せなくなっています。特に豊かさという温室の中でしか育ったことのない子どもたちは,この豊かさが自然であると思いこんで,その外に厳然と存在している本物の自然を知りません。
心が満たされない,何を目指して生きていけばよいのか,生きがいとはどんなものか,今人は何かを探しています。宗教書がよく売れている現実がそのことを裏書きしています。本当の自然の中で生きてきた人類の血が,そう感じさせているのでしょう。生きる意味という疑問は,人間の有限性を前提として成り立ちます。限りある能力と限りある命であるからこそ,大事に生きたいと願います。そして他人にも大事に生きて欲しいと思います。その心が人間の尊厳を育むのではないでしょうか。もし人が不老不死であるなら,生きがいなど考えたり悩んだりは決してしないでしょう。生きているということ自体の意味が存在し得なくなります。生きるとは死ぬことを前提とすることで存在する概念です。ですから,生きがいを得たいと思うなら,限りある命という前提を認識する必要があります。
生きがいのもう一つの側面は,それが心の中に住むことです。死への恐れも心にあります。飢えへの恐れも心にあります。この恐れを共有したからこそ,人は寄り添って助け合い,協力し努力し支え合ってきました。飢えという共通の恐れを克服しつつある今,人が共有できる恐怖,つまり自らを弱いもの同士と思い合えることは,生の根本に横たわる最後のものしかありません。最も根源的な生命の有限性に目を向けていないから,心が空になり,寄り添って生きるという社会の絆が失われ,価値観の多様性という浮遊状態が出現しています。
死を無と捉えるなら,生は有という存在になります。しかし死とは無ではありません。無と考えるから意味を失い,思考の埒外に排出されてしまいます。死は無意味ではないということです。自己の存在の意味づけが生きがいの形であるなら,死の意味に直面しなければ生きがいは炙り出せないでしょう。例えば今自分が消え去ったとしたら後に何が残されるだろうと,想像してみるのも一つの方法です。恐らく人の心に思い浮かぶ情景には必ず誰か他人が登場するはずです。連れ合いであり,子どもであり,孫であり,恋人でありするでしょう。もしも誰も自分の蒸発を意に介さないと思えたら,自分の存在は意味を失っていると言えます。自分で自分の存在を認知できるためには,他との関係があるという不可欠な条件があります。存在価値とは他との関係性における意味概念です。無人島に一人生きて死に臨むとき,その人には生きがいがあったと思えるでしょうか。多くの漂流物語では,人は必ず日記のような記録を残そうとしています。いつか誰かに自分の存在を認めて欲しいと願うからではないでしょうか。一人の人間がこの世のここに生きていた記録を誰かに知って欲しいと思うのは,自分の存在が他との関係の上でしか認知できないと了解しているからです。自分が生きていた事実が他の人につながっていると証拠立てできて実感できることが生きがいの正体です。
人間とは悲しい動物です。他の動物のように自分の今現在の生だけを精一杯生きていければよかったのですが,明日を想像する力を獲得したために,死を意識しその反動として生きがい探しの苦しみを背負わされています。これもパンドラの箱を開いたせいなのでしょうか。自分の存在を自分で確認しなければ安心ができません。生きがいとは生命の有限性の中で他とどのように関わり合えたか,その関わりがどれほど確実なものであるかという尺度で測られる価値評価です。自己の存在が他の存在にとって役に立つものであり,たとえ捨て石であってもそこに意味を認めてもらえれば生きた証となります。どのような形で他の役に立てるかは個々に多様でしょう。自分が架けた橋は自分の死後も人の役に立つと信じることが職人の生きがいでした。いずれにしても,他が生きることに役に立つことが必須の要件です。これが人が持つべき最高の価値基準です。この基準に当てはまることが生きがいになります。
価値観は多様であると言われますが,多様な価値を判定する「原器」という基準を忘れてはなりません。アリストテレスが指摘したように,人間は社会的な存在です。他とのつながりが生きていくために必要です。そこで個人が持っている価値観は他の人の価値観と換算ができなければなりません。メートルと尺とフィートなどの長さの尺度はさまざまであっても,同じものは同じ長さとして認め合えなければなりません。ある人は1尺の棒,ある人は30センチの棒,ある人は1フィートの棒,別々の尺度を使っても,この3人の持つ棒は同じ長さです。個人的な価値観に対して,人類共通の基準が必要であり,換算し合う心遣いが不可欠です。
今私たちは死を感じ自らの人生の限界を弁え,お互いが弱い存在であると共通理解し寄り添い,他の生への貢献を目指して心の充足を得て,豊かな人生を歩んでいるでしょうか。人生50年と言われた昔,親は死を身近に意識せざるをえない年代でした。今人生80年,親はまだ死を思う年代ではなくなりました。そのために親時代には本当の人生を歩んでいずに,子どもにも大事な生きる意味を伝承できていません。親自身が持てていないものは子どもに伝えようがありませんし,その生きがいという大切な価値基準の存在すら気づいていないようです。長寿社会の中で,未来思考が失せています。
親がいずれは姿を消し子育ての結果を修正できない時代が次世代であると認識しない限り,未来思考は発動しません。親の時代が終わるという覚悟がない以上,次世代のことなど念頭に浮かびません。有り体に言えば,私たちは次世代のことなど考えようがないのかもしれません。日々何かに追いまくられ,思考の暇がなく,複雑な精密機械と化した高度社会の将来を概観することなど思いも及びません。しかしながら,無為に過ごしてよいというわけでもありません。実際,私たちは社会がわけも分からない力で動かされているような不安を感じはじめており,この先どうなるのかという危惧が広がりつつあります。子どもたちの心にもその不安感が伝染して,想像もできない形で表面化しています。無意識的に未来思考をしたいと苦悩しているような気がします。人はどのように生きていけばよいのか。そしてそのためには他との関係が必須であるらしいのに,人間関係に疎くなっていく自分に焦っています。
未来を見つめましょう。そこにしか生きがいは見つけられません。その視野の中に次世代である子どもたちがいます。親がして見せれば子どもに伝授できます。宗教で言うところの来世とは子どもたちに託す次の時代のことではなかったのかと思います。非常時に親は子どもを庇って死んでいきます。親が命をかけて守ろうとする子どもとは,親にとって夢の来世と言えるのではないでしょうか。
これまでに,限りある生命を全うしながら他への貢献という生きがいを求め,親として子の心の中に生き続けることで不死を手に入れ,子どもが幸せに暮らすであろうと信じて消えていければ,親は自らの生きた証明書が得られるという筋書きを書いてきました。生命に限りがあるからこそ,子どもに夢を託すことが親の願いになり,そのために親は未来を見つめなければなりません。生命の連鎖に意味を見つけたとき,個々の生は価値を得て,死への恐れを克服し,心が安らぎ,人類仲間という広大な思想が出現します。
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