*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【33%の責任?】

 青少年の健全育成を進める一つの方策として,学校開放というキーワードが生まれました。このような言葉ができた背景には,学校が閉鎖的であるという現状認識があります。学校が地域に向けて扉を開けることで,現実社会の息吹を取り込もうとしていると考えられています。
 どうして学校が閉鎖的になったのでしょうか? そのことを明らかにしておかなければ,学校開放の意味を取り違えてしまうことになります。結論を言えば,親たちが学校を変質させてきたのです。学校は基本的に勉強する所です。自ら学ぼうと意欲のある子どもたちが通う所です。ところが,勉強は塾の方が効率的になり,学校はしつけの場に変わりました。集団生活の基本をしつける場という名に乗じて,個人的な日常生活基本のしつけまでもおっかぶせてきました。家庭の少人数のしつけさえ受けていない子どもを数十人も一斉にしつけることなど無理です。その押しつけが学級崩壊という学習以前の無軌道状態に現れているのです。家庭も地域も子どもを学校に閉じこめてきたことが,結果として学校は子どもの収容所であり,子どものことについては全責任を負うべき所という錯覚を産み出してきたのです。学校が閉鎖的になったのではなく,家庭や地域の心得違いによって閉鎖的にさせられてきたと言えるでしょう。
 「学校・家庭・地域の連携」という言葉がどれほど頻繁に語られ,どれほど虚仮にされてきたことでしょう。単純に三者で育成を担うと考えれば,それぞれが33%を引き受けるべきです。つまり,学校は「知」の部分を受け持てばいいのです。家庭は「情」の部分,地域は「意」の部分です。さらにいえば,子どもにとっては,学校は仮の世界であり,家庭は人になる場であり,地域こそが現実の社会生活の場であるはずです。今,家庭も地域ももぬけの殻です。心ある人がわずかに奮闘していますが,大きな趨勢の前には無力です。
 大人たちは子どもたちの問題行動に驚き慌てていますが,家庭の情教育も地域の意教育も受けていないことを考えれば,なるべくしてなった帰結に過ぎません。無為であったことに気付かない限り,事態の好転は始まりません。
 学校開放は学校からの悲鳴です。「あなた達の子どもでしょう!」と本音では言いたいのです。「責任者は親たちでしょう!」と叫びたいのです。その深い所にある危機感を家庭や地域は感じ取る必要があります。せめて33%を担わなければ,健全な育成環境にはなりません。
 このままで行けばどうなるか,近未来を予測してみましょう。子どもを育てる負担を軽減しようと少子化が進展する中で,やがて親たちの長寿老後は若者の奪い合いになることでしょう。わが子はより稼ぎのよい方に流れ,親だからと特別に扱うことはしないし,親は放っておかれるはずです。なぜなら,それが親に仕込まれた生き方だからです。情も意もない育成の未来は,自分に返ってくることになります。それでもいいのですか?

(2001年09月09日)