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【来賓としての挨拶?】
来賓として「高齢者大学」の閉講式に出席し,祝辞を述べたときのことです。主催者の方々の挨拶では,労をねぎらいながら,喜びを分かちあい,結びには学ばれたことを広く地域活動に生かされるように勧誘されていました。主催者の挨拶には一定のパターンがあり,あれこれをそつなく網羅する公式的な言い回しにならざるを得ません。儀式として仕方のないことだと,話す方も聞く方も了解の上であることは確かです。
これまで主催者としての挨拶の経験は少なからずしてきたのですが,来賓の挨拶は未経験でした。部外者が何を言えばいいのか? 「おめでとうございます」という祝辞であることは明らかですが,それだけでは愛想がありません。当日まで,祝辞の構成が決まらないまま式場に出向くことになってしまいました。
時間が迫ってくる中で,式次第を眺めながら控え室で考えていました。「誰のために言うのか?」 学びを修了した高齢者です。それは生涯学習です。高齢者の生涯学習は生きがいづくりです。修了ということは,とりあえず次のステップが用意されていません。新しく何かをはじめようという目標がなければ落ち着かないはずです。やれやれ終わったでは,生きがいにはならないからです。祝辞は「皆さんにはこんなことが期待されているのですよ」という新たな課題を創出するお手伝いをすべきであろうという結論に達したのです。大した気づきでもありませんが,一応の筋立てにはなりました。
そこで次の問題に当面したのです。おそらく主催者もその点には触れてくるだろうということです。主催の趣旨に関わることですから当然です。同じ内容の話になるとすれば,少しばかりひねった方がいいということになります。主催者の話は通り一遍的に触れてくるだけのはずです。そこは経験上判断できます。来賓の祝辞はそれほど形式的にする必要もないだろうし,何か一点に絞った方がいいのではと覚悟を決めたら,いくつかの話材が思い浮かんできました。
おおむね次のような祝辞を述べました。
平成13年度の○○地区高齢者大学の修講式を迎えられましたこと,誠におめでとうございます。
6月から20回,90時間の学習は,長いようであっという間のことであったとお思いでしょう。6月の開講式にも皆さん方にはお会いいたしましたが,今日お会いする皆さん方は一つの学びをやり遂げたという充足感に溢れた満ち足りたお顔をなさっていると・・・,祝辞の原稿には書いていたのですが・・・,今日は寒いですね,少しばかり表情が硬いようですが,きっと心の中は温かいはずです。よい学びをされたとお見受けいたします。
さて,ここで皆さん方には昔話を思い出していただきたいのです。どんなものでも構いません。昔話は必ずこのように始まります。「むかしむかし,あるところに,お爺さんとお婆さんが住んでいました」と。その後の話には,お父さんとお母さんは登場しません。つまり,祖父母と孫だけなのです。父母は暮らしに忙しくて構ってはいられないのです。
お爺さんとお婆さんが孫と向き合って,物語を話して聞かせます。その内容はよいことをしたらいい報いがあること,わるいことをしたら恐ろしい目に遭うことを教えるものです。子どもの無垢の心に,どのように生きるべきか,人と仲良くするためにはどうすればいいのか,何がいけないことかを,焼き付けていたのです。生き方の芯を植え付けてくれたのが,人生経験の深い祖父母であったのです。
今,高齢者が孫のことは父母に任せっきりで構わなくなっていますが,それが若者の生き方をあやふやなものにしてしまったのです。地域社会に住む人のことを昔から「老若男女」と言います。男女とはお父さんお母さんのことであり,現在男女共同参画という動きが社会を変えようとしています。残りの老若も大事です。老若融合という新しい動きを起こしましょう。地域にとって大切なことは,命のつながりです。お爺さんお婆さんからお父さんお母さんに,そして子どもたちへと流れる生命の流れを大黒柱として立ち上げておくことが求められていると思います。それが老若融合です。
どうぞ,皆さん方が学んだこと,豊かな経験を孫たちにしっかりと伝えて頂くことをお願いして,私の祝辞といたします。本日は,おめでとうございました。
実際の挨拶は,話し言葉の常として,言葉の凸凹があったはずですが,伝えたかった内容は再現したつもりです。何はともあれ,祝辞としての体裁は一応整ったかなと思っています。実のところ,高齢者の方々に私自身今一番心からお願いしたいことを話せたことがよかったなと感じています。祝辞を述べさせて頂いたことへの私なりの返礼のつもりでした。初体験で,ちょっとばかり,気分的に疲れましたが・・・。
(2001年11月25日)
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